霧のような空白に包まれた意識が覚醒し、肉体は実体の世界へと戻る。
俺達の視界を覆っていた赤黒い風が拡散した後に姿を現したのは、派手さと堅実さが調和した中規模の屋敷。
『セエレ』の力は場所の指定が曖昧でもかなり正確な転移を可能とするので、プリズムリバー伯爵がイメージした目的地と誤差が生じるとは考えにくい。ここが伯爵の屋敷と言う事で確実だろう。
しかし万が一にも間違っていてはいけないので、傍らで茫然としている伯爵に一応の確認を取る。
「伯爵、この屋敷が目的としていた場所。君の家と言う事で良いんだな?」
「あ、ああ。しかし、これは一体……私は白昼夢でも見ているのか……?」
「夢ではなく、これは現実に起こった事だ。まだ本題に入ってすらいない内から呆けられても困るぞ」
とは言うものの、無理のない反応だとは俺も思う。よく分からないまま、突然目の前に広がる光景が様変わりすれば驚きもするだろう。
それも多少離れた位置へ移動していた程度の話ではなく、この短時間ではどうあっても移動が不可能な超遠距離への到達。受け入れられなくても当然では有る。
まあ、この事実を受け入れようが受け入れまいが俺のやる事は変わらないし、要求する内容に従ってもらわなくては困るのだが。
「しかし、これはだな…… 一体、どのような奇術を?」
「おいおい、俺の提案を受けて任せてくれたのは伯爵だろう。
疑いたい気持ちは分かるが、早く行動を再開した方が建設的だと思うがね。まだ、君の娘を診ると言う最大の目的を達成していないのだしな」
「う、うむ。確かに、今ここで問題にするべき事ではなかったな。
……諸君、私はレイラを彼に診せなくてはならない。狼狽えるなとは言わないが、ひとまず抑えてくれないか」
娘の話題が出た事で現在の状況に思い至ったのか、多少なりとも平静を取り戻した様子の伯爵。
未だに右往左往している部下達に声をかけ、茫然自失としている彼らを瞬く間に統率していく。この辺りの切り換えの速さは流石に人の上に立つ貴族と言う所か。
「しかし、あまり大勢で案内するのも非効率的だな。二手に分かれ、片方は先行して私達の帰りを知らせてくれ。残りは私と共に田澤殿を案内する」
「……分かりました、伯爵! それでは、使用人や奥方様へ事情を説明して参ります」
明確な指示を出した伯爵に従い、数人程が慌ただしく屋敷へ走っていく。
その後ろ姿を見送りながら伯爵はこれからの予定について説明を始めつつ、彼等とは別方向へ移動を開始した。
「恐らくレイラは自分の部屋で休んでいるのだと思う。突然に戻ってきた事情の説明は彼等に任せるとして、私達は一刻も早くレイラの部屋へ向う。田澤殿、着いて来てほしい」
「了解した」
ここまで来たら彼等と共に屋敷に入り事情を説明して、それから移動しても正直そこまで時間は変わらないと思うのだが……その僅かな時間すら、もどかしく感じるのだろう。
せめて所在の確認くらいはしっかり行ってから向かった方が効率的な気もするが、伯爵の心情も十分理解できるので口出しはしないでおこう。それくらいの空気は読めるつもりだ。
そう考え、走る伯爵達の後を追っていく……と、青娥が近寄って耳打ちするように話しかけて来た。
「空間転移の術、中々刺激的な体験だったわ。次の治療術も、何をするのか期待させてもらいます」
「……君、今気に掛けるべきはそれじゃないだろう」
「そうは言われても、つい数刻前に会ったばかりの見知らぬ殿方の娘に興味なんて持てませんもの。むしろ初対面の相手にそこまで感情移入する田澤さんもおかしいと思いますわよ?」
……やはり、傍目から見て俺の行動は『おかしい』と感じる物なのだろうか。一応俺には俺なりの線引きが有り、その判断基準に従って行動しているのだが。
青娥の感性が常人のそれとは大きく異なっているとは言え、他人からの客観的な評価としておかしいと断じられると幾分堪える物は有る。八雲に自動人形呼ばわりされた時と同種のショックだ。
しかしよりにもよって青娥に弱みを見せる訳にはいかない。内心の動揺を押し隠し、自信に溢れた賢人の仮面を被る。
「おかしいとは心外だな、これは何時もの仕事と変わらんよ。伯爵の収集物に探し物が紛れている可能性は高いのだ、それを報酬として動いているだけさ」
「あらあら、それにしては先程までの田澤さんは表情が深刻でしたけど。……とりあえず、今はそう言う事にしてあげますわ」
そう言って無邪気に笑う青娥を務めて無視しつつ、伯爵を追って走り続ける。
正面玄関を迂回するような位置にある入口から屋敷に入り、何事かと目を向ける使用人のような者達を尻目に速度を緩める事なく階段を駆け上っていく。
伯爵を先頭に数人の集団が無言で屋敷を走る姿は相当シュールな物だったらしく、目撃した人は例外なく唖然としている。しかもそれが遠い異国に旅立っている筈の一団なのだから、別の意味での驚愕も大きいだろう。
何とも表現のし難い視線を向けられながら走る事数分。どうやら目的地に到着したようで、これまでに通り過ぎて来た物とは扉の作りが違う部屋の前で止まる。
……今更だが、面会謝絶のような状態も考えられる病人の部屋の前までドタバタと走って来て良かったのだろうか。雰囲気に流されて注意するのをすっかり忘れていたが、本来なら落ち着いて歩いてくるべきだった。
「伯爵、ここが君の娘の?」
「うむ、レイラの部屋だ。……入るぞ、レイラ。お父さんだ」
伯爵は室内へ声を掛けてから、緊張のせいか強張っている腕でゆっくりと扉を押し開く。
そのまま部屋に入室していく伯爵達に続き、俺も軽く息を吐いて気合いを入れ直しながら踏み込む。俺に失敗は許されない、何としてでも健康体に戻してやらなければ。
……そう意気込んでは見た物の、いざ入ってみると部屋に肝心な娘の姿が無かった。
「む、確かに此処はレイラの部屋の筈だ。では何故……まさか、既にレイラは」
「いや、伯爵。単純に休んでいるのが此処ではなかったと考えた方が正しいような……」
人影の無い部屋を見て、気の早い事を呟く伯爵。その可能性も考えられる事は確かなのだが、決め付けるにはまだ早すぎるだろう。
それに伯爵は自信満々に娘の部屋を目指したが、現在の屋敷の状況が分からないのは彼自身も同じだ。早合点で間違った場所に辿り着いてしまった、と考えた方が良い気がする。
ともかく此処に娘が居ないのであれば長居する理由は無い。
俺一人ではこの屋敷を自由に動けないので、伯爵を促して次のアテが有る場所へ移動しようとしていると。
「伯爵っ、やはり此方でしたね。レイラお嬢様は別館でお休みになられております!」
「何だと、この部屋ではないのか」
新たに室内へ数人が走り込んできて、伯爵に娘が別の場所に居る事を伝える。
どうやら彼らは先程の先行して事情を説明しに行った者達らしく、その際に屋敷側の事情も聞いてきた様子。それを受けた伯爵がならばそちらへとばかりに再び走り出そうとした為、今度こそは諌める。
「まあ待て、伯爵。一刻も早く娘の顔を見たい君の気持ちは痛いほど察するが、さっきから度を超えて焦り過ぎているように見える。
現に今も状況をよく確認しないまま逸って無駄足を踏んだ。こう言う時にこそ落ち着いて娘に接し、父親として恥ずかしくない姿で勇気付けてやるべきだ。……君達、伯爵の御令嬢は現在危篤と言う訳ではないだろう?」
「う、うむ。御可哀想に酷くやつれておられたが、意識自体はしっかりしている様子であった。体調も今の所は比較的安定しているとの事」
伯爵の部下達に確認を取ってみると、何故お前が仕切っているのだと言わんばかりの視線と共に答えてくれた。
伯爵は酷くやつれていたと聞いて内心穏やかではいられなくなったようだが、意識自体はしっかりしていると言う事も聞いて最低限の落ち着きは取り戻したらしい。一度深呼吸するように間を取ってから、冷静に言葉を発する。
「……すまぬ、先程より皆には見苦しい姿を見せたな。案内を頼む、先導してくれ」
「わかりました、伯爵。着いてきてください」
今度は伯爵の部下を先頭に、伯爵の娘が居ると言う場所へ向かうべく移動を再開した。
先程見せた転移魔法と口の利き方に思う所が有るのか、数人は歩きながら俺に畏怖とも侮蔑ともつかない視線を向けてくる。しかし伯爵の娘を回復させると公言している以上、負の感情は有っても俺に対して下手に手出しは出来ないようだ。
正直に言えばあまり良い気はしないが、俺を信用できない気持ちは分かるのでその視線は甘んじて受け入れておく。怪しげな術を使う上に貴族に横柄な異国の旅人に対して、良い印象は持てないだろう。
暫く無言のまま歩いていると、何やら騒がしい音や声が近づいてきた。目的地が近いと言う事だろうと考え、伯爵に声をかける。
「伯爵、家の者達への対応は君に一任して良いか? 多分、俺が言葉を巡らせるより伯爵が説明してくれた方が早いと思う」
「任せてくれ、田澤殿はレイラの為に全力を尽くしてほしい」
「心得ているよ」
ほぼ不審者の俺が事情の説明や治療に関わる事への説得を試みるとなると、無駄に時間がかかってしまうばかりか最悪拒否されてしまう事も考えられる。
それではデメリットしかないので、無責任ではあるが最初から伯爵に全て任せた方が確実だ。不満は出るだろうが、家長の決定となればそう表立った反発は無い筈。勿論、諸手を上げて受け入れられる事も無いだろうが。
事前に頼みたい事はこれだけなので、後は成り行きに任せるだけである。伯爵達へ続いて一際目立つ大きい扉を潜り、複数人が慌ただしく動いている広間に踏み込んだ。
「おお伯爵様、本当に戻っておられたのですか!」
「うむ。東の地より、奇跡を以て人を癒すと言う方を連れて……」
「お父様ーっ!」
「ぬおっ、り、リリカ? 少し見ない間に大きくなったな」
挨拶もそこそこに早速俺の事を紹介しようとした伯爵だが、駆け寄ってきた小さい栗毛の女の子にぶつかるように抱き着かれ説明が途切れる。
四女のレイラの他にも三人の姉が居て、それぞれ上からルナサ、メルラン、リリカと言う名前である事は屋敷に来る前の段階で既に聞いていた。今伯爵に泣きながら抱き着いた少女は三女のリリカと言う事なのだろう。
「お父様、レイラがね、大変なの。お医者様が意地悪して、レイラを助けてくれないの。どうして? リリカ、お姉ちゃんなのに何もできないよ」
「大丈夫だよ、リリカ。お父様が意地悪をしないお医者様を連れてきたからね。少し待っていなさい、今に全て解決するよ」
しゃくり上げながらも必死に妹を気遣っている事が分かるリリカに、伯爵は穏やかに笑いかけながら力強く宣言する。
その言葉を聞いてリリカは俺に気付いたのか、伯爵に抱き着いたまま顔だけを俺に向け睨み上げるような視線で問い詰めてきた。
「本当に、レイラを助けてくれるの? 今までのお医者様もそう言ったけど、嘘つきばかり」
「絶対に治すと約束する。だから安心してくれ、嘘は吐かない」
「……約束したからね」
本気で取り掛かる理由が増えたな。元々手を抜くつもりなど無かったが、少しでも早く安心させてやらなければなるまい。
そう心中で改めて決意していると、新たに二人の少女が伯爵と俺に近づいてくる。おそらく四姉妹の長女と次女、ルナサとメルランだろう。
「メルランお姉ちゃん、この黒い人がレイラを助けてくれるって、私と約束したよ」
「そう……今度こそ、助けてくれると良いわね。レイラが治ったら、みんなでお祝いしましょう?」
「……妹を、レイラをお願いします」
淡い水色の髪の少女がメルラン、金髪の少女がルナサと言う事らしい。メルランはリリカへ精一杯の微笑みを向けながら悲しそうに抱きしめ、ルナサは何とも沈痛な面持ちで俺に頭を下げてくる。
伯爵は自分の娘達がひとまず落ち着いたと判断したのか、再び俺の紹介を始めた。
「さて、聞いての通りだ。この方の起こす奇跡を私達は実際に体感してきた。私は彼に、レイラを任せたいと思う」
「伯爵、しかし……」
「可能性が有るのなら、私はそれを信じたい。皆よ、どうか私の我儘を聞き入れてくれ」
「……分かりました。この男の素性は、実際に確かめてみれば分かる話ですな」
伯爵の熱意に押されたのか、俺に治療させる事を一応は受け入れてくれたようだが……
俺に向ける訝しげな視線や、言外に詐欺師と言わんばかりの口調からは少しも俺に期待していないように見える。伯爵を言葉で説得する事は諦め、俺が失敗する様を見せてから追い払おうと判断したのだろう。
まあ、どう思われようと治療に入る事が出来るのなら問題はない。やる事をやるだけだ。
執事のような姿の男に連れられ広間の奥の部屋へ向かう。伯爵とその数人の部下、そしてしれっと着いて来ている青娥と共に、俺は遂に四姉妹の四女と対面した。
「おお、レイラ! 何と可哀そうに……」
「お父、さま? 本当に、戻ってきていたのですね」
ベッドに寝かされていた少女を見た途端、伯爵は堪え切れないと言った様子で駆け寄る。
自分の腕を取りながら嘆く伯爵を見て、少女は儚げな微笑みを浮かべる。全体的に少女には生気が無く、軽く見ただけでも相当な重症と判断出来る程。
悲劇的な物とは言え父と娘の感動の再会に水を差すのは悪いが、俺の仕事を早々に済ませるとしよう。
「伯爵、済まないが……」
「う、うむ。レイラ、このお方は遠い国から来てくださったお医者様だ。今にすっかり良くなるからね」
「でも、もう私は治らないって言われて……」
「治るよ。君の体は絶対に治る。だから希望を捨てないでくれ」
「……お医者さまは、私を助けてくれないわ。今まで、ずっとそうだったもの」
「俺の事は無理に信じてくれなくても良い。でも、少しだけ手助けをさせてほしいんだ」
これまでの経験故か、殆ど自身の事については諦めているらしいレイラ。俺と目を合わせようとしない彼女に何とか俺を受け入れてもらうべく、説得を行う。
「治るかもしれないって思ってから、やっぱりダメだったって。そうなるのは辛いの。私の事は放っておいて」
「諦めないでくれ、俺は君を助ける為に此処へ来た。助けられる君を、見捨てる訳にはいかない」
「助けられる、なんて軽く言わないで。それを聞くのが一番嫌い。……まあ、そこまで言うなら好きにしてよ。気が済んだらおしまいにしてね」
「心配しなくても、すぐに終わるさ」
どうも言葉の選択を間違ったらしく態度を硬化させてしまった。しかし、それによって消極的な対応ながらも言質は得る事は出来た。結果オーライとは言えるだろう。本人と周囲に断りを入れてから歩み寄り、魔法を併用しつつその体の状況を診る。
……ふむ、どうやら主な症状は重篤化した風邪とそれから来た肺炎のようだ。これらによる衰弱が床に伏せる要因だとすれば、大体の筋道は見えた。
手をレイラの胸の辺りに近づけ、まずは肺を対象に回復魔法を発動。俺の掌から淡い光が溢れ、そのままレイラの体に吸い込まれていく。これにより肺の炎症は癒された筈だ。
「え、何これ……!?」
「何と、神々しい光だ……」
俺の魔法による光を見て俄かに騒ぎ出した面々を無視し、次の治療に入る。これだけでは対症療法の一種に過ぎず、放置しては再び肺炎が引き起こされるだけだ。
今度は風邪の症状そのものを対処するべく、レイラの腕を軽く掴み魔力を流し込む。そして流しこんだ魔力を操作してレイラ自身の免疫力を一時的に常人を上回るレベルにまで強化、風邪の原因となっていたウィルスを急速に死滅させる。
俺の回復魔法は他人が相手では自身に使う程の影響を及ぼさず、そもそもが肉体の損傷等にしか効果を発揮しない。なので風邪の治療をしようとなると、このような迂遠な方法を取らざるを得ない。
かなり昔に藍へやったように俺の血液を体内に含んでもらえば、魔法による干渉力も強化されたりするのだが……流石にそれは色々と無理が有るし。他に思いつく手段も余計に手間がかかる物ばかりなので、これが最適な方法だと思う。
「さて、調子はどうだい?」
「……」
「ど、どうしたレイラ。何か今ので良くない事でも……」
「……違うのお父さま! 体が、体がすっかり良くなったの!」
「な、僅かに触れられただけで悪病が消えたと仰られるのか!?」
魔法で再び体調を診たので症状が消えた事は確信しているが、一応レイラ自身にも聞いてみる。
暫くレイラは何が起こったのか信じられないと言った様子で呆然としていたが、伯爵の声に答えて叫ぶように自身の回復を伝えた。途端、固唾を飲んで見守っていた周囲の者達からも驚愕の声が上がる。
「本当よ! 今ならベッドから起きて駆けまわる事だって……あらっ?」
「おっと危ない。……まだ激しく動くべきではないよ、確かに君の体は治ったが今まで寝たきりだったから体が硬くなっているんだ。ゆっくり少しずつ動こう」
ようやく自分でもしっかりと理解が及んだらしく、興奮したようにベッドから飛び降りようとして崩れ落ちそうになったレイラを咄嗟に抱える。
俺がやったのはあくまで体調を健康体に戻しただけで、体力や関節の機能低下までは完全に回復できていない。あまり複雑な事をやろうとするとそれこそ俺の血液を使う必要が出てくるからだが……軽いリハビリでどうとでもなるし、自然に任せて良いだろう。
「顔色も良くなっておられる……本当にお体が回復されているようだ」
「そ、それでは、この男は……いや、このお方は人の病を癒す聖者だと言うのか!?」
「よくよく見れば、何と高貴な雰囲気に満ちた御姿だ……連れ合いの御婦人も慈愛に満ちたお顔をしておられる」
最初の反応と打って変わって、随分と調子の良い人達だ。まあ、突然現れた怪しい旅人に最初からこの対応をしてもらえる訳は無いのだが。そしてさりげなく青娥にまで好印象が飛び火しているらしい。何だか複雑だ。
伯爵に背負われながらも元気な姿で現れたレイラを、屋敷の皆は大きな歓声で出迎えた。
特に姉妹の三人の喜びようは凄まじく、伯爵と共に飛び上がらんばかりに喜んでいる。そして、俺は俺で忙しくなった。
「どうか聖者様の御手で私に触れて頂けないだろうか」
「聖者様の黒衣を、切れ端で良いので譲ってほしい。病を癒す御守としたい」
「聖者様、貴方の御来歴をお伺いしたいのだが……」
二度と治らぬとされた病を触れただけで癒した、と言う事が広まり使用人を中心にかなりの人々が俺に殺到。口々に俺を聖者と呼んでは、御利益を受けようと迫ってくる。
……ちなみに青娥はすぐさま避難し、少し離れた位置から清楚に見える笑みを浮かべて傍観している。細かい所まで立ち回りの上手い奴だ、つくづく油断ならない。と言うか、名目上は一応師匠である所の俺に対して良い度胸だな。
「あー、聖者と呼ばれても困る。俺には田澤昴と言う名前が有るのだ、呼ぶならせめてそちらで頼む」
「タザ……? すいませんが、もう一度お聞かせください」
「……呼びにくいなら、スバルとだけ覚えてほしい」
とりあえず聖者と呼ばれる事を何とかしようと考え、名前を教えるも馴染みのない響きだったせいで上手く聞き取れなかったらしい。
この調子だと何度も聞き直された挙句に間違った名前で覚えられそうなので、フルネームは避けて下の名前だけで名乗っておく。……伯爵は普通に発音していたが、彼は仕事柄慣れていたと言う事なのだろう。
「後、生憎だがこの黒衣を渡す事は出来ない。その代わり癒しの力を使う分には問題ないから、その目的なら一列に並んでくれ」
「おお、有りがたい……」
集まってきた人達に軽く回復魔法を施してやっている間に、伯爵達の方もひとまず落ち着いたようだ。そろそろ俺も声をかけるべきだな。
そう考えて目線を向けると丁度四姉妹と目が合い、彼女達はレイラを手助けしてやりながら俺の方に歩いてきた。
「……旅の聖者様、本当にありがとうございました」
「私からもお礼を言わせて。実を言うと、全然信じてなかったけど……レイラを治してくれて、ありがとう!」
「約束を守ってくれたお医者様は初めて! 優しいね、お兄ちゃん!」
「そう言ってくれると、苦労が報われた気分だよ。ただ、俺は聖者なんて柄じゃないんだ。お兄ちゃんと呼ばれるのも何だかむず痒いから、スバルと呼んでくれ」
ルナサ、メルラン、リリカがそれぞれ礼を言ってくれる。伯爵への勝手な同情と、コレクションを対価として行った行為なので微妙に後ろめたい部分も有るのだが……ありがたく、受け取っておこう。
「……ほら、レイラも。言いたい事が有るんだよね」
「え、あ、その。面と向かうと恥ずかしいな」
「恥ずかしがってちゃダメよー。笑顔でどーんと、張り切って!」
「大丈夫、レイラ? お姉ちゃん達がついてるよ」
「う、うん。……ありがとう、スバルさん! 私の、救世主様!」
「……え、ああ。救世主は、流石に言い過ぎだよ。それに俺は少し手助けをしただけさ」
……命を失いかけた者を自らの力で助け、称賛を浴び、救世主と呼ばれる。それは『俺』ではなく『田澤昴』が欲しかった物だろうに。
『田澤昴』が欲して、そして永遠に手に入れる事が出来なかった全てを、『俺』は田澤昴として手に入れなければならない。それは俺の行動基準の全てだが、時々ふと虚しくなる。
「良い機会ですし、今の内に聞いておくことにしましょう。田澤さん、貴方って人を助ける事について異常に執着している節が有るわね」
「藪から棒に、異常とは失礼な奴だな。人助けくらいやって当然の事だろう。それに今回は意気投合した相手だったのだし」
レイラの快気祝いを終え、当初の約束通り伯爵のコレクションを一通り見せてもらう事になった俺と青娥。
宝物庫のような部屋に案内され、そこで小奇麗に保管された雑多な物品を手分けして漁っていた俺達だが、唐突に青娥が質問をぶつけてきた。
「やって当然と言う考え方は個人の問題だから深く掘り下げないにしても、田澤さんは限度を超えていますわ。
それに今回は、不特定多数の人前で大っぴらに力を使いたがらない貴方にしては随分と張り切った物じゃない? 何がそこまで貴方を駆り立てたのかしらね」
「……俺の行動を深読みするのは別に構わんが、君もしっかり探せよ」
「あら失礼。気になる殿方の事をもっと知りたいと言う、女心のちょっとした発露でしたの」
「君の発言はいちいち信用ならないな……」
適当にあしらうと、意外にもすんなりと退いた青娥。俺としては妙に詮索されたくない部分なので有りがたいと言えばそうなのだが、逆に不安になる。
これまでの経験上、こういう時こそ青娥は良からぬ事を企んでいる可能性が多いのだが……しかし敢えて地雷を踏みに行くつもりもないので、そのまま流しておく。
「そう言えば青娥、屋敷に来てから君にしては珍しく大人しいな。殆ど誰とも会話してないだろう」
「……田澤さん、妙な所で抜けてるわね。貿易をしに来ていた伯爵様の一行はともかく、他の方々とは言葉が通じないのよ。話したくても話せないの」
「あ、ああ……」
「田澤さんが博識なのは知っていましたけど、まさか異国の言語も自由自在だったとは……いえ、尸条書の由来を探っていた時点で予測しておくべきだったのかしらね」
言われてみれば当然の話だった。青娥にとってはまるで接点の無い国なのに、会話が出来る筈もない。
青娥から向けられる生暖かい視線に居た堪れなくなり、魔導書探しに集中する事にした。
「……田澤さん、そっちは何か見つけたかしら?」
「魔導書自体は有るが、俺達が探している種類の物ではないな。珍しさと言う観点から見れば結構な値打ち物だが、あの『尸条書』とは比べるべくもない物ばかりだ」
互いに暫く無言で捜索を続けていたが、飽きたらしい青娥が疲れたような声を上げる。
それに答えて俺も自身の成果を伝えるが……あまり芳しくはない。魔術とは名ばかりの根拠のない動作を記述した偽書が有ったり、まるで出鱈目な文字を書き殴った本と呼ぶのすら烏滸がましい物ばかりなのだ。
時々細々と儀式的な魔術を書き綴った本物が有ったりはするのだが……あまりにもマイナーかつ効果が限定的な物なので、俺達の目的に合致した物ではない。まあ、個人的には興味を惹かれるので幾つか貰っていこうとは考えているのだが。
「うーん、いい加減に飽きてきたわねえ。田澤さんに御教授頂いている魔法さえ有れば、魔導書も別段必要ではないと思えてきましたし」
「それ、かなり昔に俺が忠告したんだがな…… まあ、そういう事ならこの辺りで魔導書探しの旅は終わりにしようか。とは言っても、せっかくだからこの宝物庫の物は全部確認するぞ」
「こういう地味な作業は嫌いじゃないけど、成果が出ないと嫌なのよね。ああ、何か有ってほしいわ」
再び捜索に戻る俺達だが、明らかに青娥はやる気を失っている。元は自分から提案したのに何とも勝手な物だ。
まあ、青娥自身で魔導書に対する興味を失ってくれるのなら有りがたい事である。元々、青娥に踏み込んでもらいたくなかった話だし。
「む、これは……」
「あら、何か面白い物が有った?」
「やはり俺達が探している類の魔導書ではないが、それなりに面白い物では有る。特に、君には中々興味深い物だと思うぞ」
俺が見つけたのは、かなり詳細に記された分厚い道教の秘術書。尸条書と異なり純粋に道教由来の術を記している魔導書なので、実は青娥にとっても中々新鮮な物ではないだろうか。
「へえ……中々しっかりしている教本みたい。既に知っている内容が大多数だけど、それでもこうして一冊に纏め上げた書って言うのは珍しいし。
異国の言葉で記された魔導書よりも、こう言う物の方がしっくりくるのかもしれないわね。よく考えたら、読めず扱えもしない書を持ち運ぶのも何だか間抜けだわ」
「満足してもらえたようで何より。さて、それでは俺もこの辺りの物を頂く事にしよう」
「田澤さんは何を貰っていく事にしたのかしら」
「普通に数少ない本物を持っていくよ。有用性は無いが、読み物としては結構な物だ」
選り分けていた本物の魔導書を手に取り、残りは片づけていく。蔵書量に比して本物の量が悲しい程少ないが、魔法使いではない者が集めたコレクションにしてはマシな方である。
……それに、禁忌の叡智を記した物が一つも無かったと言うのは素直に嬉しい。この屋敷にそれらの脅威が降りかかる可能性は無いと言う事であるし、青娥にも無難な魔導書で納得させる事が出来た。ようやく肩の荷が降りた気分だ。
「もう一度だけ聞くが、あの契約は無効と言う事で良いんだな」
「勿論だ。娘の命を救ってもらったのだ、ずうずうしくも此処に留まって外套を作れとは言えんよ。君達の旅は、私ごときが引き留めてよい物ではなかったと言う事だな」
客人として一泊させてもらった次の日、俺と青娥は屋敷のエントランスで伯爵達に別れを告げていた。
結果的にレイラを治す目的で転移してきたとは言え、その前段階では二年間の契約で外套職人になる予定だったのだが……伯爵はそれについては無かった事にしてくれるらしい。正直に言うと、有りがたい。
「……スバルさん、本当に行っちゃうの? まだまだ、お話したい事がたくさん有るのに」
「ごめんな。俺達も旅の目的が有るし、帰らないといけない場所が有るんだ。だけど、幸せに過ごせるように祈っているからね」
「うん……寂しいけど、我慢する。スバルさんの事、私は一生忘れないわ」
伯爵と共に見送りに来ていたレイラは、涙を堪えた様子で声をかけてくれる。
まだ完全に健康体と言う訳では無さそうな物の、昨日よりは体力が戻っているらしく補助を必要としないで立つ事が出来るようになったようだ。これなら俺の出る幕はないだろう。
「重ね重ね、ありがとうございます。貴方は否定するけど、私達にとってスバルさんは……」
「正に救世主! いつか新しくスバルさんの名前が広まるんじゃないかしら、病を治す聖者としてね」
「そしたら私が皆に教えてあげる。とても優しくて約束を守ってくれる人だって」
「ははは……まあ、程々に頼むよ。あまり有名になっても困っちゃうからな」
レイラ以外の三人もそれぞれ別れを惜しんでくれているらしい。何だか、胸が熱くなってくる。それだけ慕ってくれると言うのは、恥ずかしくもあるがやはり嬉しい。
「さて、そろそろ俺達は行くよ。皆、元気でな」
「田澤殿、もし近くに来る用事が有ったなら遠慮なく訪れてくれ。いつでも歓迎しよう」
「……スバルさん、また会おうね!」
俺にも名残惜しい気持ちは有るが、別れは旅に付き物。レイラの声に手を振る事で返し、屋敷を出る。
先の予定は未だ決まらず、少なくとも後数年は戻ってくる事はないだろう。ただ、出来ればもう一度この屋敷に戻ってきて伯爵や四姉妹達とゆっくり語らいたい。そう漠然と考えながら、青娥と共に歩き始めた。