「……いよいよ、だね」
「うむ。まあ、そんな緊張する事は無いさ」
俺と妹紅は、いまだ夜の闇が明けきらぬ人里で言葉を交わした。遂に諸々の準備が終わり、外界旅行の当日となったのである。
「そう言われてもなあ、もうここ数百年は幻想郷で過ごしてた訳だし……
外界の事について聞けば聞くほど、えっと……カルチャーショック? を受けるんだよ」
「ここまでの経験で築いてきた価値観と全く異なる世界に踏み出すのは、不安も避けられんか。
だが、妹紅は既に順応とまではいかずとも対応は出来るくらいの知識を得ているぞ。それは保証しよう」
妹紅は流石に僅かの不安を隠せない様子で、頬を掻きつつ弱気な言葉を漏らす。
しかしそこは胸を張って構えて欲しい、俺と八雲が最低限として設定した基礎知識のレベルはむしろ超えているのだ。身も蓋も無い事を言うと、火を使う等と言った異能さえ隠しておけば幻想の存在だ等と見る方が外界では常識的では無い。そこにさえ気を付ければ、『幻想』が露呈する事は有り得ない。
……八雲の考えは、また別になるのだろうが。彼女は、自身や俺と言った『例外』以外が外界と接触する事を快く思っていないようだからな。今回は俺が付いているから見逃しただけだろう。
「うーん、確かにあれだけ頑張って勉強はしたんだし……その努力で、自分を信じよう」
「はは、それがいい。さて、最後の準備だ。道具は俺が全て揃えてあるから、外界用の服に着替えてくれ。俺も服を換えるし、とりあえず中に入ろう」
「おーけー。ふふ、田澤がどんな服になるのか割と興味あるよ」
妹紅を連れて自宅に入り、戸の閉まる部屋に誘導してそこで着替えるように言う。
荷物を持っているようには見えなかったが、妹紅も物質転移の術が使えるし。不都合が有れば言ってくる筈なので、特に問題は無いのだろう。
俺もリビングで着替える……のだが、男の着替えと言うのは女性に比べてそう時間はかからない物だ。
と言うより、予めアウター以外は着替え終えていた。なのでやる事と言えば、いつもの黒コートを脱いで、別のジャケットに換えるだけである。
「……見様見真似で急ごしらえに揃えてきたが。不格好ではないだろうか」
手持無沙汰になり、姿見を召喚して服装を確認する。そもそも俺のセンスが駄目であればどれだけ確認しても意味は無いのだが、気になる物は気になる。
鏡に映る俺は、ホワイトデニムに赤いVネック、ブラウンのレザージャケットと言う服装で、実に不安げな表情を晒していた。……本当に不安だ。八雲に黒以外の物を選べとだけは言われたので、素直にそれに従っては見たが、これって色がとっ散らかったりはしていないのだろうか。
と、そこで妹紅が戻ってきた。不安は隠せないが、それは今更どうしようも出来ない事である。先の妹紅ではないが、努力はしたので自分を信じよう。
「お、凄い! 田澤が色彩豊かだ!」
「い、色だけか? ……って」
後ろからの歓声に複雑な感想を抱きつつ振り返ると、思わず息をのむ。
妹紅のコーディネートは白いタンクトップに赤色の……股下が深いもんぺのような奇妙なズボン、そして薄桃色の袖なしパーカー。八雲のチョイスは普段の妹紅の恰好から、全体的な印象を残したままで外界的なファッションにシフトさせる方向性のようだ。
特徴的な御札リボンはカジュアルなカチューシャに置き換わっているが、それは妥当だろう。作成者の俺が言うと無責任だが、流石に今の外界では前衛的過ぎると思う。
「う、うむ。似合っているぞ」
「ありがとう、嬉しいよ。田澤も、何か良いよ」
「何か、って。随分曖昧だな」
「私は生憎と外の世界の服はよく分からないからさ、どこがって具体的には言いにくいんだ。でも、格好良いとは思ったの」
とりあえず思った事を口に出してみると、妹紅は照れたように笑いながら返してくれた。
この分だと、俺の服も少なくとも現時点では変だと思われていないようである。上出来だろう。最低限、魅力的な少女の横に並べるくらいに取り繕えていれば良い。
「……後で八雲には改めて礼を言っておかなければな」
「ん、田澤の服もあいつに選んでもらったの?」
「いや、少しの助言こそもらったが選んでもらったと言う訳でも……まあ、それは良いだろう。全て、準備は終わったか?」
この話題をこれ以上続けると妙な部分でボロが出そうなので、本題に戻す。
我ながら無理矢理と思える転換であり、妹紅もまだ何か言いたそうにしていたが、これこそが最重要なのは事実である。妹紅は表情を僅かに緊張感ある物に変えて、力強く頷いた。
「うん、服さえ変えれば終わりだしね。私の方は、特に荷物は無いから」
「後から必要になっても荷物に関しては特に問題は無いが……その様子なら心の準備も済んでいるようだな。では、着いて来てくれ」
玄関まで戻って靴を履きなおし、その上で『扉』を開く。繋がる先は普段俺が外界へ転移する際のカモフラージュとしてよく使用している場所である。
「うわあ……ここが、外の世界…… でも、何だか妙な所だね。洞窟みたいに見えるけど、それにしては明らかに人の手が入った形跡が有るし」
『扉』から外界に足を踏み入れた妹紅は、感慨深げに声を上げる。
しかし、周囲の不自然に寂しい気配を感じ取ったせいか、あまり喜びといった感情は見受けられない。場所が場所なだけに、奇特な趣味の持ち主でなければ誰でもそうなるとは思うが。
「ははは、感動するにはまだ気が早いぞ。ここはトンネルと言って、簡単に言えば山に穴を開けて登らず向こう側へ行けるようにした道だ」
「……山に穴って、そんなのすぐに崩れて埋もれるんじゃないの」
「それに関しての説明は道中の暇な時にでもしてやろう。ここは目的地でも無いし、ひたすら歩いていく訳でも無いからな」
ここは市街地にも繋がる一般道であるが、所謂『酷道』の只中であるせいで利便性は悪く交通量も非常に少ない。
逆にその為に一部の趣味人が訪れる事も有るようなのだが、予め人払いを使えば不意の遭遇は回避可能。転移してから車を召喚するまでのプロセスさえ隠せば何も気にする事はなく、後はそれこそ趣味で通る。幻想郷と外界を行き来する際、車を持ち込む必要が有れば俺はこのように誤魔化して移動している。
妹紅の素朴な疑問には軽く返しつつ、俺は新たに『扉』から黒のセダンを呼び出す。
「あ、これは知ってるよ。自動車って言って、要するに乗り物なんでしょ」
「その通り。……流石にこれに驚かれていたら、前途多難に過ぎるしな」
妹紅は俺が呼びだした車に興味深げな視線を向ける物の、全く未知の物に触れたと言う様子でも無い。
当たり前と言えば当たり前で、そもそも『常識的な』物に関して知識を持ってもらうと言うのが妹紅に課した義務だった。具体的にどのような仕組みで動くかなどは別として、大まかにどのような物なのかはむしろ知っていてもらわなくては困る。
ドアロックを解除して、妹紅に助手席に乗り込んでもらう。シート位置の調整等を指示した後に俺も運転席に座り、車を発進させた。
「おお、これは楽しいね。何か息苦しい気もするけど、それはそれで面白いし」
「空を生身で飛び回る事に慣れていれば、確かに車は息苦しい……のだろうか。実際問題として、決して広々とした空間では無いからなあ」
「正直な事を言えば狭いけど……こんな速度で動くのに腰とか背中とかが痛くならないし、不快じゃないよ。
牛車とかってずっと乗ってると結構疲れるしねえ、これなんて柔らかい椅子が付いてるし音は静かだし快眠出来そうなくらいだ」
妹紅は、自動車を概ね好意的に捉えたようだ。これまでに経験してきた乗り物の中では、トップクラスの乗り心地と言う事らしい。
車内と言う狭い空間、それもシートベルトで座席に固定されているとあって窮屈さも感じているようだが、それ以外の居住性には満足してくれているのだろう。
「……眠気が有るなら、今の内に寝てくれても構わないぞ。
出発を遅らせる訳にはいかない理由が有ったから、こんな明け方前から起きてきてもらったが……目的地付近に着くまでには、まだ数時間単位で余裕が有る」
「ん、うーん……もったいないような気もするけど、富士山を見る時に眠かったらそっちの方が嫌かなあ」
「数日は滞在する予定だし、今の数時間くらい仮眠を取っても支障は無いさ。無理に寝ろとは言わんが、休みたいなら休んだ方が良いと思う」
早めに出発しないと交通状況や駐車場所等の問題で少し面倒だったのだが、もうその心配は無い。
いつもより睡眠時間が短くなってしまったのなら、これから目一杯楽しむ為にも今の内に補っておいた方が良い。日帰りと言う訳でも無いので、日程には余裕が有るのだし。
「それじゃあ、ちょっとだけ目を閉じておこうかなあ……何だか恥ずかしいけど」
「恥ずかしいって、何がだ」
「いや、だってさ。このあまり広くは無い部屋の、それもすぐ隣で寝てるのって」
「……そこは、あまり気にしないでおこう。互いに」
考えてみれば、何だか妙な気分ではある。しかしこれに関しては車で移動する以上は避けられない事なので、我慢してもらうしかない。
しかし『互いに』とは言った物の運転手が固定されているので、俺が寝顔を晒す事は……と言うより、眠気を覚えるのは魔力の大量消費とほぼ同義なので、かなりの緊急事態になってしまう。
「私達二人とも、寝顔を見られるなんて今更と言えばそうだしね」
「……それ、八雲とか西行寺とか、その辺の連中には間違っても言うなよ。確実に面倒な噂を立てられる」
そのような雑談を交わしている内に妹紅の反応が鈍くなっていき、数十分が過ぎた頃には静かな寝息が聞こえてきた。
緊張と期待の入り混じった、微笑ましい表情で眠る妹紅に可愛さを覚えつつ、運転に集中する。色々な意味で、妹紅に気を取られていてはいけない。
予め移動ルートとなる道路は確認していたので、特に道に迷う事もなく淡々と進む。予期せぬ渋滞等のハプニングも発生せず、おおよそのスケジュール通りに時間が過ぎていく。
そして、富士山の存在する県……今回は山梨県側に入り、暫くが経った頃、妹紅が目を覚ました。そろそろ起こそうかと思っていたので、丁度良いタイミングである。
「ふぁ……ごめん、今はどのくらいまで近づいた?」
「富士山が見えてくる辺りまで、後数十分と言った所だ。まあ、麓まではまだ先だが」
「あれ、もうそんなに? って、位置関係も移動速度も知らないんだから予測出来る訳ないか」
妹紅は思ったより速く進んでいると感じたらしく、不思議そうに声を上げる。しかし、その疑問はすぐに自己解決したようだ。
正確には解決と言うより、考えても意味が無いとの放置だが……妹紅の言う通り、俺は何も説明していなかったので、分からなくて当然だ。
「……うーん。田澤からも八雲からも聞いてたけど、この風景は違和感しか無いなあ」
「幻想郷が結界によって隔離されてから百年程経っているのだし、文化も生活様式も大きく変わるさ」
「それなんだけどさ。私達がまだ幻想郷に落ち着かず旅をしていた時も、合計で百年は確実に過ぎてたと思うんだけど……ここまで大きい変化は無かったよ」
窓ガラスから外界の街並みを見た妹紅は、実に妙な物だと首をかしげる。
俺達が妖怪退治屋を名乗って旅をしていた期間では、これ程の変化が無かった事を妹紅は実際に見ている。単純な経過年数で比較すればほぼ同じ為に、余計に疑問のようだ。
「説明すると少し長くなるが、大丈夫か」
「うん、良いよ。教えて欲しい」
妹紅は興味が有るようで、体を運転席側に乗り出してきた。俺は視線をちらと妹紅に向けた後、正面を見たままで説明を始める。丁度良い時間潰しにはなるだろう。
「考えられる全ての要因を解説していくと少しでは済まなくなるから、代表的な物を簡易に挙げていこう。
まず、文化の発展速度は常に一定では無い。何らかの理由で後退したり、もしくは完全に途切れる事も有るが、基本的には徐々に速まっていく」
「……ああ、今まさに田澤がやってくれてるような事でか」
「理解が早くて助かる。一部の者の優れた発見や考察が誰かに伝われば、その情報は多くの者に共有されていく。
そして本等の記録媒体に残ったりすれば口伝よりも更に戸口が広まり、海や時間を超えて大量に積み重なっていく」
「前の人より物を沢山知ってるんだから、そりゃあ発見も考察も優れていくよね」
これは大前提のような物だ。例外は勿論有るが、時代が進めば進むほど発展の速度は上がる。
むしろ、等速でしか発展をしないと言うのは不自然である。知識や情報とは使い減りしない資源であり、基本的には増えていく一方なのだから。
……と、林立する建造物の隙間から、明け方特有の赤い日差しと共に富士山の威容が視認出来るようになってきた。元々この解説は時間潰しの物だし、だらだらと続ける意味も無い。早々に切り上げる事にする。
「さて、この説明はここまでにしておこう。ほら、富士山が見えて来たぞ」
「え、どこに……おお!」
指を差して方向を教えると、妹紅は僅かに目を凝らした後に歓声を上げた。今日一番の喜びようである。
「周りの風景はこんなに様変わりしちゃったけど、やっぱりあの山は変わらないね……何だか、安心したよ」
「……厳密には、細かな人の手は入っているけどな。流石に地形を意図的に塗り替えるような事はしていないが」
がっかりさせるかもしれないが、本当に何もかも不変と言う訳で無い事は予め伝えておく。
流石に山道の整備等で気を落とす事は無いとは思う物の、何かで思い違いが有った時の為に釘は指しておかなければ。
「それくらいは分かってるよ。遠くからの見た目は、あまり変わってないんだなって思っただけ」
「それなら良いのだが……まあ、せっかくだしもう少し近くまで行くぞ」
富士山がはっきりと視界に入ってから、更に車を走らせること数十分。俺達は富士山の麓付近、一合目にほど近い市街地に到着した。
もうこの頃になると十分に日は昇っており、早朝と言うには遅い時間である。今はまだ静けさの方が目立つが、これから徐々に街は忙しなくなっていくだろう。
「富士山の近くへ行く前に、ちょっと寄っていきたい所が有る。そろそろ車から降りて、外の空気も吸った方が良いだろうしな」
「田澤がそう言うなら、任せるよ。外界で何をどうしたら良いかなんて、私は分からないし」
交通量の増えてきた様子を興味深げに眺める妹紅に、寄り道の提案……と言うより決定を告げる。
意見を聞かずに決めるのもどうかと少し思ったが、選択肢が有っても逆に困る筈だ。それこそ妹紅の言う通り、である。
「……少しの休憩も兼ねるつもりであるが、事と次第によってはそう落ち着いていられなくなるかもしれん。いきなりで悪いが、それは覚悟しておいてほしい」
「い、一体何処で何を仕出かすつもりなんだ? 休憩の割には物騒じゃないか」
「やる事は、単なる参拝だが……場所が問題だな」
「参拝って、それが何で問題になって……場所? も、もしかして」
何だか言質を取ってから明かすようで些か心苦しいのだが、向かう先は妹紅にとって顔を合わせたくは無いかもしれない存在がおわす社。
「富士浅間大社、祭神はコノハナサクヤ。……まあ、一応顔を見せておこうとは思ってな」
俺にとっても『我等』の邪気を知られている相手であり、まつろわぬ悪神などと喧伝されてしまった事から実の所積極的に会いたい訳では無い。
しかし富士山に近付く以上、此方からお伺いを立てておく方が後の事を考えれば無難だろう。俺達それぞれを忌み嫌っている節の有るかの女神だが……下に出て頼みに行けば、もしかしたら登山にかかる何かしらの許可はくれるかもしれない。このような下心を抱いていく事自体が許されない、と言う可能性も非常に高いが。
「うう、確かに無視する方が怖いか。壺はちゃんと供養したし、それは伝わってるだろうから前ほどの事はされない、かなあ」
「ついでに言えば周囲に一般人も大勢……いや、これはあまり安心出来ないか」
何しろ蓬莱の薬を供養するよう誘導する為に、帝の兵士達を殺し合わせた彼女である。被害に構わず、と言う事は有るかもしれない。
勿論知らずとは言え神の怒りに触れる事をしていたり、神秘が身近に存在する時代の兵なので、現代日本における『一般人』とは比べられないと言えばそうなのだが。
「もっと不安になるような事を言わないでよお……でも、流石にいきなり仕掛けてくる事は無いと思う。
向こうだって、自分を祀る神社で下手な事は出来ないだろうし。あの時攻撃的だったのは、『不死』が富士山に居たからって理由も少なからず有るだろうし」
「うむ。神社の結界の外で少し様子を見て、駄目そうだったら諦めよう」
「まあ、最悪でも散歩にはなるよね」
何だか今更になって考えが軽いんじゃないかと言う気もしてきたが、どちらにせよ無視すると後が怖いのは事実である。
であれば、どんなに迷おうが結論は変わらない。刺激しないように気を付けつつ挨拶して、可能そうであればお情けを頂けないか頼み込む。
何とも言えなくなった雰囲気の中で車を走らせ、見付けた浅間大社の駐車場に停める。しかし駐車場と言う割には完全に敷地外であるので、ここからは徒歩で向かう事になる。
とは言え、この場からの行き方くらいはどうにでもなる。パンフレット等の案内図は持っていないが、魔法を使えば良い。神域の探知、上空からの俯瞰、周辺の道の把握、この程度の魔法行使ならば一切の痕跡も残さずに行える。
「……おお、流石に人が多いね」
人の流れからも迷いようが無く、数分で浅間大社の目前に到着した俺達。妹紅は周囲を行き交う人々を見て、小声で呟く。
「そうか? この規模の神社でなら想定の範囲内に……ああ、幻想郷と比べたら多きに過ぎるか」
「多いだけなら、幾らでも聞いてた事だけど。やっぱり、今の私達みたいな服を着てる人ばかりって見慣れない」
「幻想郷でこのような服は、ごく稀にしか出回らない物だからな」
妹紅は周囲の雰囲気に、どうにもまだ違和感を覚えるようだ。人里の文化は明治時代に外界と切り離されているので、昨今の外界で用いられる『洋服』はそもそも概念が薄い。
「と、ちょっと迷惑かな。あんまりここで立ち話してるのは」
「うむ、通行の邪魔か……しかし向こうから反応が有るまでは動くに動けない」
人通りのど真ん中で棒立ちすると怪しい上に迷惑だが、生憎と鳥居を潜るのが憚られる身の上である。
少し迷った後、端に寄りジャケットの内ポケットに入れていたデジタルカメラを取り出す。写真を撮っている風を装いながら、小声の会話を続行する事にした。
「その他にも、今の時点で外界に慣れない事は有るか?」
「うーん。何だか随分繊細な事を言うようだけど、騒がしい事かな」
「騒がしい? まあ、人が多いからある程度は必然なのだが」
「ああ、単にうるさいって訳じゃなくて……いや、それも有るんだけど。何だか空気が、あまり心地よくない」
「空気……全体の、掴みようのない雰囲気その物と言う事だろうか」
「そう、そんな感じ。文字通りの意味でも、何だか空気が美味しくないけどね」
ふむ。単純に物理的な意味でも、排気ガス等の原因によって『空気が不味い』とは言えるだろう。
だが、それに加えて『雰囲気が心地よくない』か。これも幻想郷の物とは違う意味での混沌に気疲れしていると取れるが……もしかすれば、外界と言う『現実』を拒絶して、同時に『現実』からも拒絶されているのかもしれない。
……線引きが分からないな。俺にはそのような感覚は無いし、八雲もあの様子を見る限りでは何ら不都合が無いのだろう。つまり例外と言う訳だが、それは果たしてどのように定められる物なのだろうか。幻想郷の結界が『現実』と『幻想』を分けた事が影響しているのか、それ以前から幻想の存在は排斥される事が決定付けられていたのか……
「ちょ、ちょっと、田澤ぁ……戻ってきてよ、こっちで置いてかれると本当に困るんだって」
「うおっ、す、すまない。そうだな、自重しなければ」
いつの間にか思考に集中し過ぎていたようで、焦ったように俺を揺さぶる妹紅の声で我に返る。
周囲に他人が居ない場合ならともかく、妹紅のサポートは普段以上に優先される事項だ。それなのに俺が意識を飛ばしていては、八雲にも頭が上がらなくなってしまう。
これはいつも以上に気を張っていなければと考えた所で、俺の目の前を何かがよぎる。
まるで注意を引くかのように通り過ぎていったそれは、初夏において季節外れに過ぎる桜の花びら。……これは、もしかして。
「どうしたの? また黙り込むのだけは止めて欲しいんだけど……うん? その、花びら……」
「……ああ。僅かに神気を感じる。この場所で、しかも桜を象徴とする神と言えば、考えるまでも有るまい」
ひらひらと舞う桜を手に取って眺めていると、妹紅は焦れたように俺の腕を引っ張る。そうして手に乗った花びらを見た妹紅は、しかし俺と同じように息をのんだ。
「これが、咲耶姫の神託なのかな。……どういう意味なんだ」
「生憎と俺も分からない、これだけでは判断材料が少なすぎると思うのだが」
妹紅は少し考え込んだ後に俺を見上げてくるが、俺にも意味がよく分からない。
俺達に気付いていると言う事は伝わったが、それ以上の事は……許容にも拒否にも取れないので、先程までよりも更に困る。
そんな俺達に痺れを切らしたのか、次なるアクションが起こった。またもや何処からともなく現れた花びらが、今度は俺の目の前ではなく持っていたカメラを指すかのように舞い踊る。……で、カメラで何をしろと言うのだ。
「写真を撮らせてどうするつもりなのかな……ああ、念写?」
「おお、成程。そう言う事か」
そろそろ何か気付かないと向こうの機嫌も悪くなるだろうと焦っていると、妹紅が勘の良い事を口に出す。
これは思考の傾向の問題だろうか、俺も世界最大級の魔法使いだと自負はしているのだが……『現実』にも強く接する存在なので、物事の捉え方に関してはそちらを基準にする部分が大きい。
俺は残念ながら念写の専門家と言う訳ではないが、真似事くらいなら幾らでも出来る。
そもそも、ここまであからさまに示してきたと言う事はコノハナサクヤがお膳立てもしていると考えて良いだろう。手に乗せたままだった花びらを、デジタルカメラで無造作に一枚撮る。
……デジタルカメラで念写とは、いかにも風情が無いな。相性は悪い気もするが、これは俺の偏見か。
「写真がすぐに出来上がるんだよね、私にも見せて」
「うむ、この場合は画像データに何かが……これだ」
早速今撮った写真を確認する。本来であれば掌の上の桜が写る筈だったそこには、雄大な富士と、その上部を覆い隠す異様な霧。
「富士山……に、霧がかかってるね。わざわざ霧を見せるってのは、そう言う事なのか」
「うむ、踏み込んではならない領域……境界線の提示か」
これは割と分かりやすい。神が寓意的に見せた、山と霧。山は例えると言うよりその物を差しているが……霧に関しては、考察する要素が多分に有る。
古来より日本では、山にかかる霧とは特別に信仰を持たれる存在だ。人の踏み込めない世界の象徴、神域と言う異世界との境界線。コノハナサクヤとも浅からぬ関係のある、アメノサギリが司る事象であるし……この霧が隠している範囲には立ち入るなと言う事なのだろう。
「逆に言えば、この霧のかからない範囲までなら登っても良いと言う事になる。……言う程には登れないが」
「霧より下は緑しか見えない……これは、五合目辺りまでも行けたら良い方だよ」
「最初は登る事すら予定に無かったのだから、許してくれて有り難い事には変わりないが。しかし、こんな迂遠な方法を取ると言う事は」
「直接は会いたくないんだろうね。神社にも入らない方が得策かな」
やろうと思えば思念だけでも言葉を飛ばせるだろうに、それすらしないと言うのは筋金入りだ。
俺は『まつろわぬ悪神』として警戒し、妹紅は『不死』を忌み嫌う。それは分かっていたつもりだったが、こうも意思表示されると些か寂しい物が有る。そんな嫌悪する存在を自分の領域にある程度までは近づけてくれるのだから、少しは感謝しないといけないのだろうが。
「ふむ……結局は妹紅の言った通り、散歩だけになってしまったか。
だが富士山にもある程度まで登れると言う事で予定は少し変えられる、車で行ける所まで行ってみよう」
「え、富士山もアレで登っていけるのか……ううん、凄い便利な事になってるなあ」
「流石に森林限界程の高さまで行けば、余程の専用車両でもなければ物理的に無理だけどな。整備されている範囲でなら、かなり自由に行き来が可能なようだ」
それこそ、五合目あたりが車で行ける限界……もしかして、これを見越しての制限提示だったのか? だとすれば意外に親切と言うか何と言うか……妙な所で慮ってくれている事になるが。
「これ以上はここに居ても仕方ない。あまり時間が経つと混んでくるし、早めに移動しよう」
「そうだね、あの乗り物が皆に普及してるなら富士講も大流行だろうなあ……先んずれば人を制す、だね」
「本当に気合の入った者達なら、今頃は山頂から降りてくるくらいだがな」
当初の予想とはやや違った形では有るが、この神社に来た目的は果たした。
参拝していきたかったのも本音なのだが、よりにもよって祭神に歓迎されていないようなので仕方がない。妹紅と共に元来た道を引き返し、駐車場まで戻って車に乗り込む。
「山登りの準備も、しようと思えば出来るが……俺達の場合は車でも行ける範囲までしか登れないから、物凄く滑稽な姿を晒す事になる。どうする?」
「あはは、元々登る気も無かったんだし別に良いよ。ある程度まで登れるってだけで十分さ」
「うむ。それでは、行ける所までのドライブと洒落込もう」
予定に無かった目的地が追加されたが、これも旅の醍醐味だ。それも行きたいが諦めていた場所だったので、嬉しさも一入である。
妹紅を傍らに伴った、未知の場所への二人旅。それも外界でのやり方に則った物と言う新鮮な体験。これからの数日間がとても楽しくなりそうだと言う予感を胸に、俺は車を走らせた。
そろそろ本当にペースを戻さないといけませんね……ご迷惑をおかけして申し訳ありません。