夜のホームは、音がなかった。
電光掲示板は沈黙し、線路の先は闇に溶けている。
空気は重く、湿り気を帯び、肺の奥にじっとりと張りつく。
ここが、噂に聞く「きさらぎ駅」なのだろう。
現実から一歩ずれた場所。
帰り道を失った人間が、気付けば立っている終着点。
足元に落ちている砂利の一つ一つが、妙に自己主張して見えた。
――嫌な感じだ。
「……おい、紫。いい加減にしろ」
自分の声が、やけに大きく響いた。
隣を見ると、紫はわざとらしく身を寄せてくる。
指先で袖をつまみ、怯えたような声を作ってみせた。
「だって、見て。あっちの茂みに何かいるわよ?
恐ろしいわぁ、私、食べられちゃうかも……」
視線の先、闇の奥で、確かに“何か”が蠢いた気配がある。
輪郭は定まらず、存在感だけが濃い。
普通なら、背筋が凍る場面だ。
……普通なら。
「……あんた、今自分の言ったことがどれだけギャグか分かってんのか」
ため息混じりに言うと、紫はくすっと笑った。
「境界を操って、存在そのものを『無』にできるババァが、
どこの馬の骨とも知れない都市伝説相手に何を言ってんだ」
「あら、失礼ね」
紫は肩をすくめる。
「今はか弱き居候の女の子を演じてるんだから、
そこは空気を読んで守ってくれてもいいじゃない」
「守るも何も……」
自分の腕に、紫がしっかりと絡みついている。
その感触は、人間のそれと変わらないのに、
その奥にあるものの規模を思い出してしまって、逆に落ち着かない。
「いいか。今俺の腕に抱きついてる最強妖怪より怖い怪異があるなら、
連れてきてみろ」
闇に向かって言い放つ。
「……もしそんなのがいるなら、それはもう宇宙が終わる時だ」
数秒の沈黙。
風も止まり、空気が凍りつく。
次の瞬間、紫はあっさりと表情を切り替えた。
「はいはい。じゃあお邪魔したわね」
そう言って、何のためらいもなく“隙間”を開く。
現実と現実のあいだに裂け目が走り、
そこから、底の見えない暗がりが覗いた。
――この駅より、はるかに深い闇。
二人はそのまま、散歩の帰りのように歩き出し、
隙間は静かに閉じた。
後には、何事もなかったかのようなホームだけが残る。
……いや、違う。
そこには、“震えている存在”があった。
きさらぎ駅。
怪異そのもの。
『……え、帰った? 本当に帰った?』
ホーム全体が、かすかに軋む。
『……助かったぁぁぁ!』
線路が鳴り、壁が震える。
『何なんだよあいつら!
隙間から別の空間が見えたぞ!
俺のテリトリーより深い闇が覗いてたぞ!』
混乱と恐怖が、駅という概念そのものを揺さぶる。
『「お邪魔したわね」じゃねぇよ!
壊れる!
駅舎ごと概念消滅させられるところだったわ!』
叫びは、誰にも届かない。
『あの男も何なんだよ……
あんなバケモノの腕掴んで、平然とツッコミ入れて……』
しばらくして、駅はようやく静けさを取り戻した。
闇は元の位置に収まり、
何事もなかったかのように、
次の迷い人を待つ。
ただ一つだけ、確かなのは。
――もう二度と、
あの二人には来てほしくない、
という切実な願いだけだった。