ある日、帰ってきたら――増えていた。
「あら?」
「おかえりなさい、貴方」
何が、って。
八雲紫だ。
見れば分かりやすい。
片やジャージ姿でくっちゃねしている妖怪。
片や、幻想郷の賢者。
「なんだ、オリジナルが迎えに来たか?」
「だから、どっちもオリジナルよ」
ジャージの紫が、当然のように言う。
「言い方は悪いけど、分裂したスライムにオリジナルも偽物もないでしょ」
「あなた、本当に私?」
賢者の方が、少し眉をひそめる。
「もう少し言い方に趣があってもいいんじゃないかしら」
「だめだめ」
俺は首を振った。
「こっちのあんたは、もう現代文明にどっぷりだ」
「へぇ」
「そうだよ、俺がそれだ文句あるか」
一瞬、空気が張りつめる。
「……私が何を見定めようとしたか、分かるのね」
賢者の紫が言う。
「そうよ」
ジャージの紫が、肩をすくめる。
「彼は、キャラクターとしての貴方を見てるんでしょうけどね」
「まぁ、いいわ」
賢者は、あっさりと踵を返す。
「今日は帰るわ」
「そうね」
ジャージの紫は、あまり興味なさそうに言った。
「別に、もう来なくても、どちらでもいいけど」
「なんだ」
俺が口を挟む。
「統合したりしないのか?」
「安心しなさい」
賢者は振り返らなかった。
「今さら一つになんて戻れないわよ」
少しだけ、声が柔らぐ。
「もう彼女は、貴方の隙間妖怪。
私とは、元が同じだっただけの、別のなにかよ」
「俺の隙間妖怪であるわけないだろ」
即座に否定する。俺の隙間妖怪、なんて気持ち悪い存在だ。
「強いて言うなら、俺のところに居る隙間妖怪だ。間違えんな」
「あら」
賢者が、くすりと笑う。
「本当に、分かってるのね」
「そうよ」
ジャージの紫が、俺の腕にしがみつく。
「あげないんだから」
「はいはい」
賢者は手を振った。
「ご馳走様」
幻想郷の賢者は、そう言って帰っていった。
賢者が立っていた場所には、何の痕跡も残っていなかった。
空気が揺れた気配すらない。最初から誰もいなかった、と言われた方が納得できるほど、綺麗に消えている。
幻想郷の賢者という存在は、いつもそうだ。現れて、確かにそこにいたはずなのに、去った後には説明のしようもない空白だけが残る。
その空白を、俺はわざわざ埋めようとは思わなかった。
意味を考え始めれば、いくらでも理屈は出てくる。けれど、それを言葉にした瞬間、この場から何かが零れ落ちる気がした。
隣にいる紫は、最初から賢者として立ってはいなかった。
視線も、立ち方も、存在の距離も、向こうとは噛み合わない。
今ここにいるのは、役割を脱いだ存在ではなく、ただこの場所に居ることを選んでいる八雲紫だった。
俺が、聞けたのは一言だけだった。
「……いいのか?」
「いいのよ」
それだけで、十分だった。