喜多郁代という少女はいわゆる陽キャと呼ばれる存在である。
友人は多く、教室のどこにいても誰かしらと笑い合っている姿が目に入る。声はよく通り、感情は素直で、好きなものは好きだと全身で示す。その在り方は周囲にわかりやすくとても眩しい。
けれど、如何に明るく前向きで日々を楽しく過ごしてる彼女と言えど、悩み事くらいはある。その最近の悩み事といえば、やはり友人のことだった。
友人。五月に仲良くなった声の出せない少女、藤原莉子である。
「……はぁ」
「喜多ちゃんどうしたの? ため息なんかついて」
「ああ、いえ、すみません……」
「いや、全然いいんだけどね。何か悩みがあるなら聞くよ?」
「一回五百円ね」
「コラッ! そんなことでお金を取るわけないでしょ!」
バンドの練習終わり、喜多郁代と伊地知虹夏と山田リョウの三人はファミレスに集まっていた。後藤ひとりは家までの距離の関係上、先に帰っている。
「莉子ちゃん……ええと、初ライブの時に来てくれた友達のことなんですけど」
「うん憶えてるよ。そういえば、最近は遊びに行ったっていう話も聞かないね……喧嘩でもした?」
「いえ、喧嘩はしてないんですけど……」
喧嘩はしていない。それは確かなのだが、しかし、状況的には似たような物かもしれない。何せ、顔を合わせることすら殆ど無く、ふいに鉢合わせた時もすぐに顔を逸らされ、送ったメッセージにも反応が無いのだから。
「……あの、初ライブ辺りからなんだかギクシャクしてるんです」
「ギクシャク、ねぇ。実際どんな感じなの?」
「学校で話掛けても素っ気なくて……あと、あれから遊びに誘っても何かと理由を付けて断られちゃうんです。夏休みに入ってからも、まだ一度も遊べてませんし」
「……うーん、原因はわからないの?」
それがわかっていなくて。そう、首を振る。
心当たりは無かった。けれど、気が付かない内に彼女の気を害してしまったのだろう。それは彼女の態度を見れば察することは出来る。しかしそれも、何をしてしまったのか知らなければどうしようもない。
「……まあ、莉子にも事情があるんだと思うよ」
そう言ったのは、意外にもリョウだった。
テーブルに頬杖をつきながら、ドリンクバーのメロンソーダをくるくると混ぜる。その声音はいつも通り淡々としているのに、妙に核心を突いていた。
「リョウ先輩はわかるんですか?」
「ライブの日からっていうなら、もしかしたらね。……莉子の居たバンドは色々あったから。それで思うことがあったのかも」
「そういえば莉子ちゃんもバンドやってたって言ってたね。でも色々って?」
「色々は色々だよ」
「…………」
これまでは、彼女のバンドについては敢えて聞かないようにしていた。彼女の言動から察するに、あまり良い終わり方では無かったのだろうから。それは処世術とも言えるような、喜多なりの優しさだった。
しかし、敢えて聞かないようにしていたそこに原因があるのなら。自分が避けられ、彼女が辛そうな表情をする原因がそこにあるのなら。
「……リョウ先輩。先輩は、莉子ちゃんのバンドのこと、知ってるんですよね?」
「……まあね。もちろん、詳しいことは知らないけど」
リョウは頬杖をついたまま、視線だけをグラスの中に落とす。氷が小さく触れ合う音がして、沈黙がテーブルの上に降りた。その沈黙に、喜多は思わず背筋を伸ばす。
知りたいと思った。きっと、軽い話ではない。安易に踏み込んでいい話ではない。
「…………」
リョウはしばらく何も言わなかった。
その沈黙の長さに、喜多は自分がどれだけ踏み込んだことを言ってしまったのかを改めて実感する。
視線は逸らさなかった。逃げることはしないという意思表示のつもりだった。
「莉子は、たぶん知られたくないと思うよ」
「……そうかもしれません」
喜多は小さく頷いた。それは受け入れるような頷きだった。
自分でも、わかっている。彼女が知られたくないならば、無理に聞き出すことはするべきではない。それは優しさではなく自分勝手で無駄な詮索だ。
──それでも、と喜多は膝の上で手を握り直す。
「大事な友達なんです。大好きな友達なんです。そんな友達が、辛そうな顔をしているのに、何も知らないのが嫌なんです」
喜多は頭を下げる。誠心誠意、それが今出来る精一杯だった。
「お願いします。教えてください」
頭を下げてお願いする喜多に対し、リョウはまたため息を一つ溢し、スマホを操作する。すぐに喜多のスマホが震えた。
「私からは言わないけど、何があったか知りたいのは尊重する」
「……リョウ先輩」
「知った上で、どうするかは郁代の自由だよ」
▽
気が付けば日は傾き、あと少しもすれば夜になるだろう時間帯。私は家の最寄駅に着いていた。
改札を過ぎると同時、ポケットの中のスマホが震える。取り出して確認すると、喜多ちゃんからのメッセージだった。
「…………」
画面を見つめたまましばらく立ち止まる。
遊びに誘うのでも、私を心配するのでもない文章。あまり良い予感はしなかった。
改札を出た人の流れが横をすり抜けていく。夕方の駅前はそれなりに賑やかで、人の声や電車の音で飽和していた。
『少しだけでいいから、会って話したい』
どうするべきか、少し考える。
あの子のことだ、きっと何か察したのだろう。もしかしたら、山田さんから何か聞いたのかもしれない。
脳裏に浮かぶのは、あの日のステージとその直後の光景。楽しそうに、満足そうに笑っていた顔。
もしも、私の中にあるものに、彼女が気付いてしまったのだとしたら。嫉妬とか、後悔だとか、そういった醜い感情を知ってしまったのだとしたら。
「…………」
小さく息を吐く。
断ろう。それが一番だ。
そう思ってメッセージを送るために指を動かそうとしたが、けれど意思には反して中々動いてくれなかった。
──本当に、それでいいのか。
指先が止まったまま、画面の中の短い文章をもう一度読み返す。たった一行。それだけなのに、どうしてこんなにも重たいのか分からなかった。
会って、話したい。
それだけだ。責める言葉も、探るような遠回しさもない。ただ真っ直ぐに、こちらに向けられている。
断ろうと思えば、断れる。適当な理由をつけて、今日じゃなくてもいいと先延ばしにして、そのまま曖昧にしてしまうことだって出来るだろう。そうやって、今までもやり過ごしてきた。
それでも。やはり胸の奥に引っかかるものがあった。小さくて、けれど無視できない棘みたいなものが。
このまま逃げたら、きっとまた同じことを繰り返す。
見ないふりをして、気付かないふりをして。そうやって積み重ねたものが、今の自分なのだとしたら──これ以上増やしたくはなかった。
「…………」
深く息を吐く。
顔を上げると、駅前の喧騒がやけに遠く感じた。さっきまで煩わしかったはずの人の声も、電車の音も、今はどこか別の世界のものみたいだった。親指が、ようやく動く。
『分かった。どこで会う?』
送信ボタンを押した瞬間、逃げ道が一つ消えたような気がした。
けれど不思議と、少しだけ肩の力が抜ける。
すぐに既読がつく。
『ありがとう。駅前の公園で待ってるね』
その返信は、やっぱり早かった。
ポケットにスマホをしまい、ゆっくりと歩き出す。駅前の喧騒を抜けて、少しだけ暗くなり始めた道を進む。
街灯がぽつぽつと灯り始めていた。昼と夜の境目みたいな曖昧な時間。空はまだ完全には暗くなりきっていなくて、どこか中途半端な色をしている。
まるで、今の自分みたいだと思った。
公園はすぐに見えてきた。見慣れた場所のはずなのに、今日はやけに距離があるように感じる。
一歩、また一歩と近づくたびに、胸の奥がざわついた。
何を言われるのか分からない。
何を言うべきなのかも分からない。
それでも、逃げなかっただけ、少しはましだと思いたかった。
やがて、公園の入り口に差し掛かる。
ベンチの辺りに、一人の人影が見えた。
街灯に照らされて、はっきりと分かるその姿。
一歩、歩く度に砂利を踏み締める音が鳴る。私の緊張は足元から現れていた。それに気付いた彼女はこちらを向く。
いつもとは違う、思い詰めたような、真剣な表情。そして、彼女は言う。
「ごめんなさい。私、莉子ちゃんのこと……バンドのこと、知っちゃった」