事務所のソファ。
ヨシノが穏やかにお茶を飲んでいる。
その肩には、ミウが当然のような顔で頭を乗せ、スマホを弄っていた。
ミウからの一方的な密着。
ヨシノから積極的に抱き寄せることはないが、拒むこともしない。
人気のある組み合わせでトークも安定しているため、二人での仕事は多い。
マネジメントの手が回らない時は、二人だけで現場に向かうことも日常茶飯事だった。
そこへ、後からレオナがフラリと入ってきた。
向かいのソファに座ると、膝の上で紙袋を開ける。
大判焼きを取り出し、まさに齧り付こうとしたところで、ミウが顔を上げずに声をかけた。
「レオナちゃん、ネット見た?」
無言で首を傾げるレオナ。
「なんかレオナちゃんの部屋にあった小説の作者は誰かって掲示板があってー、その内容がSNSにも拡散されてるっぽいよ」
ミウのスマホを、ヨシノが横から覗き込む。
「あら、皆さんレオナさんがお好きですのね……好きな物というのは、どうしても気になってしまうものですわ」
「あたしもいっつもヨシノさまのこと気にしてるよ♡」
ミウがさらにヨシノの肩に顔を埋める。
ヨシノは笑顔のまま、動かない。
二人が話している間、レオナは黙々と大判焼きを食べていた。
「でも意外だよね、レオナちゃん小説とか読むんだねえ」
ミウが少し、嫌味ったらしい響きを混ぜて言う。
レオナは一度、咀嚼の止めて答えた。
「……読む。読みたいから、漢字は小学生でぜんぶ憶えた」
「ぜんぶ?」
「2,136字。常用漢字ぜんぶ」
「高校生までの範囲を、すべて憶えてしまわれたのですか……」
「……レオナちゃん相変わらず意味わかんない」
ミウが呆れたようにヨシノの肩に顔を埋め直す。
ヨシノは笑顔のまま、その重みを受け止めていた。
数拍後、ふと思いついたように顔を上げたミウは、上目遣いでレオナを仰ぎ見た。
「ねえ、そんなに漢字頑張ったレオナちゃん。じゃあご褒美に、その大判焼き、あたしに一口ちょうだい♡」
「……頑張ったのは、私」
レオナは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「いいじゃん、細かいことは! ほら、あーん♡」
ミウはレオナの正論を軽やかにスルーし、口を開けて待機する。
レオナは数瞬の沈黙の後。
手に持っていた、すでに自分の歯型がついている食べかけの大判焼きを、ミウの口へ迷いなく突っ込んだ。
「もがっ……!?」
不意打ちで口を塞がれ、ミウが目を白黒させる。
レオナは、もがくミウを一瞥もせず、膝の上の紙袋にガサゴソと手を突っ込んだ。
そして、完璧な形の新品の大判焼きを取り出す。
それを、ヨシノの目の前へスッと差し出した。
「……ヨシノ、これ」
「あら、わたくしにまで? 嬉しいですわ、ありがとうございます」
ヨシノはふわりと上品に微笑み、新品を受け取った。
ミウは、口に突っ込まれた大判焼きを慌てて手で受け止め、自分の「食べかけ」とヨシノの「新品」を交互に見比べ、フリーズした。
「……は?」
一切の装飾を剥ぎ取った真顔。
「なんであたしの口に食べかけ突っ込んで、ヨシノさまには新品なの?
格差エグくない?」
「……ミウは『一口わけて』って言った。ヨシノは、まだ食べてないから」
「理屈は合ってるけど納得いかないんだけど!?」
レオナは、ミウの抗議をBGMに、自分用の大判焼きを再び食べ始めた。
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帰り道。
小さな神社の前を通る。
ぬるい風が吹いて、レオナの脳裏に古い記憶が蘇った。
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幼稚園に通っていたころ、レオナは自分が「ちょっと違う」ということを、すでに知っていた。
砂場で遊ぶふりをしながら、視線を感じる。
その日は、やけに多かった。
「ライオンみたい」
「へんなの」
違う、とレオナは思う。
ライオンは強い。
だからそれは、悪口になっていない。
無視を続けていると、子供たちが近付いてきた。
「ねえ、触っていい?」
「くるくるしてる」
断る前に、指が伸びてくる。
ただ、掴まれただけ。
「やめて」
声は、思ったより低く出た。
それでも。
「だっておかしいよ。日本人じゃないんでしょ?」
変なのは、世界のほうだ。
おまえらの、ほうだ。
――だって、パパと同じ色だ。
だから、レオナは言った。
「わたしのほうが、綺麗だよ――それ、嫉妬って言うんでしょ?」
一瞬、空気が止まる。
――やっぱり、自分は間違ってない。
そう確信した、次の瞬間だった。
「じゃあさ、レオナちゃんのママも外国人なの? おうち、外国なの?」
胸の奥が、きゅっと縮む。
――ママは、もういない。
写真や、映像でしか知らない。
「……ママは日本人、うちは、日本だよ」
指で、足元の砂を指す。
「ずっと、ここ」
言葉にしたのは、それだけだった。
それ以上言うと、なにかが壊れそうだったから。
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帰り道、パパが言った。
見上げた先で、レオナと同じ金色と緑色が、夕陽にキラキラと光っている。
「……小学校はね、違うところに行こうか。レオナが、嫌な思いしないように」
レオナは歩きながら、靴のつま先を見ていた。
「どうして」
「……」
「私、間違ってない――負けてない」
小さく、でもはっきりと言った。
パパは困った顔で笑った。
「そうだね。でも……」
――その「でも」が、
世界の全部だった。
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パパが、家を買って引っ越すことになった。
レオナは、負けた気がした。
だから、引っ越した日のことを、よく覚えている。
新しい家。新しい町。
隣の家の前に、ひとり、小学生くらいのおねえさんが立っていた。
猫背気味で、眼鏡をかけて、落ち着きなく視線を泳がせている。
最初に思ったのは。
きれいな髪だな、だった。
黒くて、まっすぐで。
――自分とは、全然ちがう。
次に思ったのは。
情けないな、だった。
自分より年上なのに。
なんで、あんなにビクビクしているんだろう。
ちょっとだけ。
ほんのちょっとだけ。
羨ましい、と思ったのも事実だけど。
その時は、それを認めなかった。
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約束していた。
お隣の、頼りないおねえさん――咲姫と。
今日は一緒に帰る、と。
レオナと咲姫は、五歳年齢が違う。
レオナは現在小学三年生。
咲姫は中学二年生だ。
一昨年は毎日一緒に小学校へ登下校していたが、咲姫が中学生になってしまってから、登校は途中まで。
下校は待ち合わせの予定が合う日だけになっていた。
レオナは、古びた小さな神社の前で待っていた。
――遅い。
腕を組む。
イライラしている自分を、レオナは自覚していた。
約束を破られるのは嫌いだ。
自分が、軽く扱われるのも嫌いだ。
「……何やってんの」
独り言を呟いて、中学校がある方をを睨む。
――迎えに行くか。
そう決めた瞬間には、もう歩き出していた。
考えるより先に体が動く。
それは、ずっとそうだった。
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通学路。
人気のない道。
そこで――見えた。
人だかり。
咲姫がいた。
両手にいくつもカバンを持たされて、肩が引っ張られて、前に傾いている。
「ほら、早くしなよ」
「落とすなよ?」
「遅いんだけど」
笑い声。
軽い、冗談みたいな声。
咲姫は何も言わなかった。
ただ、俯いて。
抵抗もせず。
――違う。
レオナの中で、何かが鳴った。
これは、違う。
そのとき。
「汚れるでしょ」と誰かが言って。
黒い髪が、引っ張られた。
一瞬だった。
咲姫の身体が、ぐらっと揺れる。
その瞬間。
レオナの視界が、真っ白になった。
次に起きたことを、レオナははっきりとは覚えていない。
覚えているのは、感触だけだ。
地面を蹴った感触。
空気を切る音。
相手の身体に、
足が当たった衝撃。
ドロップキックだった。
考えたわけではない。
ただ――出た。
「なにすんの!?」
知らない。
聞こえない。
触るな。
それしかなかった。
体格差なんて、どうでもよかった。
勝てないのは、わかってた。
でも、引き下がる理由が、なかった。
「こら!!」
大人の声。
誰かが後ろからレオナを掴んで、引き剥がす。
レオナは暴れた。
「離せ!!」
「まだ――!!」
止められることが、許せなかった。
「レオちゃん!!」
――咲姫の声がした。
震えていた。
その声で。
やっと、世界が戻ってきた。
地面に座り込む咲姫。
泣いていない。
でも、唇が白かった。
引き剥がされたレオナは、肩で息をしていた。
手が、震えている。
怖くはなかった。
後悔もなかった。
ただ一つだけ。
胸の奥で、ぐちゃぐちゃに絡まっていた感情があった。
――触るな。
それだけだ。
レオナの視線は、ずっと咲姫だけを追っていた。
その黒い髪が、乱れているのを見て。
胸の奥が、焼けるように熱くなった。
「なんで、あんな無茶したの?」
咲姫の声は、震えていた。
「……いっぱいいたでしょ。レオちゃんより、おっきかったでしょ」
「……」
「勝てるわけ、ないじゃない……」
レオナは、答えなかった。
ただ、咲姫の肩から零れた黒い髪の先を、そっと掴んだ。
指先が、震えていた。
「……触るな、って思った。誰にも、触らせたくなかった」
「……?」
「綺麗だから。真っ黒い髪、綺麗で……わたしと、違って……」
言葉が詰まる。
言わなきゃいけないのに、言葉にならない。
「……好きだから。
咲姫のこと、好きだから……」
声が震えて、途切れた。
沈黙が、痛いくらいに長かった。
咲姫の指が、ゆっくりと動いた。
レオナの手を、そっと包むように重ねて。
「……バカ。レオちゃんの、バカ……」
小さく、掠れた声。
涙は落ちなかった。
でも、握られた手が、熱かった。
――後で分かったこと。
咲姫がいじめられていたのは、こっそり書いていた小説が見つかって揶揄われたのがきっかけだった。
レオナはそれを、読ませてもらった。
咲姫はひどく照れていた。
漢字がわからなくて、何度も聞きながら、読む。
「おもしろい」
レオナがそう言ったら。
咲姫が、笑った。
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家の前。
玄関で掃き掃除をしている作務衣姿のパパ。
その隣で、立ち話をしている咲姫。
レオナは真っ直ぐに走り寄り、咲姫に向かって思い切り飛びついた。
「わっ、レオちゃん!?」
よろけた二人を、187センチあるパパが軽々と受け止める。
「おっと、危ないよ、二人とも」
パパは笑顔で、二人を抱きかかえる。
レオナは咲姫の胸に顔を埋め、鼻をピスピスと鳴らした。
「……お腹、すいた」
「っふふ、もう。パパさんが大判焼き買ってくれてるよ」
ちょっと照れた顔で。
咲姫が、笑う。
常用漢字を憶えたのも。
空手を三連覇するまで続けたのも。
全部、この髪に触らせない為と。
この笑顔の為だった。
結局、いつもそうなのだ。