第1話:灰色のノイズ
1971年、1月。
滋賀の山あいに新設されたばかりのトレセン学園栗東校は、まだあちこちに赤土が剥き出しのままで、活気と寒風が入り混じっていた。
肺の奥まで凍りつくような冷気を吸い込み、俺――神楽坂飛鳥は、重いコートの襟を立てた。
鞄に入っているのは、昨日交付されたばかりのトレーナーライセンス。
今日の用事は、管理棟で担当登録の手続きを済ませることだ。
20歳。この世界では、まだ大人の入り口に立ったばかりの若造だ。
行き交うベテランたちの靴音に混じって、少し頼りない自分の足音が砂利を踏む。
それでも、視線を上げれば、そこにはこれから始まる「何か」への期待があった。
グラウンドの方から、地響きみたいな音が聞こえてくる。
俺は案内板の矢印から少し外れ、吸い寄せられるように柵へ近づいた。
――瞬間、こめかみの奥がピリッとした。
数人のウマ娘が、併せバでコーナーを回ってくる。
先頭を走る少女の、地面を蹴る一瞬。呼吸のリズム。重心の揺らぎ。
視界に入ってくる情報が、俺の中で勝手に「音」のようなものに変換される。
(……リズムが、悪いな)
今の栗色の髪の子だ。スピードはあるが、左の踏み込みだけ、雪の上を歩くみたいに浅い。
地面を捉える時間が、右に比べてコンマ数秒だけ短いのだ。
幼い頃から、俺の「目」は利きすぎた。
完璧に見える走りの裏で、どこかの歯車がひとつ、音もなく軋んでいるのが分かってしまう。
それは日常でも同じだった。見えなくていい他人の嘘や、隠したはずの本音まで透けて見えてしまい、余計なことを言っては疎まれた。
おかげで、気づいても黙っている癖がついた。
「……ここでも、誰も気づかない、か」
独り言は、冬の風に溶けた。
コース脇にいるプロの大人たちでさえ、タイムと着順という「結果」しか見ていない。
これを武器と呼ぶべきか、厄介な体質と呼ぶべきか。
俺は苦笑いして、管理棟へと足を向けた。
◆
管理棟の事務所に入ると、ストーブの上のヤカンがシュンシュンと音を立てていた。
窓口のガラス越しに、割烹着を着た事務員のおばちゃんが顔を上げる。
「はいはい、ご苦労さん。新任さんやね? 若いなぁ」
俺がライセンスを出すと、おばちゃんは慣れた手つきで書類を出しながら、親しげに笑った。
「寒い中よう来たねぇ。担当の届け、出す?」
「いえ、今日着任したばかりなので」
「そらそうか! ま、気張りや」
彼女はパンパンと書類を揃えながら、声を落とした。
「せやけど兄ちゃん、今は一月やで? めぼしい子は、去年のうちにベテランさんが唾つけとるわ」
「……やっぱり、そうですか」
「普通は中等部二年までに見つけるもんやからねぇ。今からスカウト回っても、残り物にありつけるかどうか……」
口調は軽いが、内容はシビアだ。
俺は苦笑いで返すしかなかった。スタートラインに立つ前から出遅れているのは自覚している。
「……じゃあ、どうすれば」
「残っとる選択肢は、だいたいあそこやね」
おばちゃんがペン先で指した先には、廊下の掲示板があった。
学食の限定メニューや、落とし物の告知に混じって、一枚だけ空気の違う紙が貼られている。
『移籍希望リスト』
ガリ版刷りの青いインク。担当契約を解除されたり、引受先を探しているウマ娘たちの名前だ。
その最下段。
誰からも見向きもされず、画鋲の周りが黄ばみかけた一枚の紙に、俺の視線が止まった。
――オペラローリン。
鞄から使い古した戦績ファイルを取り出し、ページを繰る。
昨秋の萩S快勝。だが、その後の東京と中山での大敗。
備考欄には、かつてのトレーナーのものらしき、突き放すような評価。
『精神的な脆さあり。競り合いに弱く、底が見えたウマ娘』
「底が見えた、か……」
文字面だけ見れば、終わったウマ娘だ。
だが、俺の頭の中で再生される彼女の走りには、奇妙なノイズが混じっていた。
……違う。脚が限界なんじゃない。
勝負所であるはずのコーナーの手前で、無意識にブレーキをかけている。
美しい旋律を奏でるはずの楽器が、次の音を出すのを怖がって、震えているような不協和音。
彼女は走るのを諦めたんじゃない。どう走ればいいか分からなくて、泣いているだけだ。
「……こんな評価で、終わらせてたまるか」
ニ十歳の、実績ゼロの俺に何ができるかは分からない。
けれど、この雑音だらけの評価の下に、まだ誰も聴いたことのない「澄んだ音」が埋もれている気がした。
気づけば、俺の手は伸びていた。
古い紙の端を掴み、剥ぎ取る。
バリッ――。
乾いた音が、冬の廊下に小さく響いた。
それはまるで、これから始まる長い楽譜の、最初の一小節みたいな音だった。
手の中にあるのは、泥にまみれた可能性の原石。
ここから始めよう。
俺と、彼女の物語を。