ウマ娘競バ史   作:geko

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1971年
第1話:灰色のノイズ


 1971年、1月。

 滋賀の山あいに新設されたばかりのトレセン学園栗東校は、まだあちこちに赤土が剥き出しのままで、活気と寒風が入り混じっていた。

 

 肺の奥まで凍りつくような冷気を吸い込み、俺――神楽坂飛鳥は、重いコートの襟を立てた。

 鞄に入っているのは、昨日交付されたばかりのトレーナーライセンス。

 今日の用事は、管理棟で担当登録の手続きを済ませることだ。

 

 20歳。この世界では、まだ大人の入り口に立ったばかりの若造だ。

 行き交うベテランたちの靴音に混じって、少し頼りない自分の足音が砂利を踏む。

 それでも、視線を上げれば、そこにはこれから始まる「何か」への期待があった。

 

 グラウンドの方から、地響きみたいな音が聞こえてくる。

 俺は案内板の矢印から少し外れ、吸い寄せられるように柵へ近づいた。

 

 ――瞬間、こめかみの奥がピリッとした。

 

 数人のウマ娘が、併せバでコーナーを回ってくる。

 先頭を走る少女の、地面を蹴る一瞬。呼吸のリズム。重心の揺らぎ。

 視界に入ってくる情報が、俺の中で勝手に「音」のようなものに変換される。

 

(……リズムが、悪いな)

 

 今の栗色の髪の子だ。スピードはあるが、左の踏み込みだけ、雪の上を歩くみたいに浅い。

 地面を捉える時間が、右に比べてコンマ数秒だけ短いのだ。

 

 幼い頃から、俺の「目」は利きすぎた。

 完璧に見える走りの裏で、どこかの歯車がひとつ、音もなく軋んでいるのが分かってしまう。

 それは日常でも同じだった。見えなくていい他人の嘘や、隠したはずの本音まで透けて見えてしまい、余計なことを言っては疎まれた。

 おかげで、気づいても黙っている癖がついた。

 

「……ここでも、誰も気づかない、か」

 

 独り言は、冬の風に溶けた。

 コース脇にいるプロの大人たちでさえ、タイムと着順という「結果」しか見ていない。

 

 これを武器と呼ぶべきか、厄介な体質と呼ぶべきか。

 俺は苦笑いして、管理棟へと足を向けた。

 

 

 管理棟の事務所に入ると、ストーブの上のヤカンがシュンシュンと音を立てていた。

 窓口のガラス越しに、割烹着を着た事務員のおばちゃんが顔を上げる。

 

「はいはい、ご苦労さん。新任さんやね? 若いなぁ」

 

 俺がライセンスを出すと、おばちゃんは慣れた手つきで書類を出しながら、親しげに笑った。

 

「寒い中よう来たねぇ。担当の届け、出す?」

「いえ、今日着任したばかりなので」

「そらそうか! ま、気張りや」

 

 彼女はパンパンと書類を揃えながら、声を落とした。

 

「せやけど兄ちゃん、今は一月やで? めぼしい子は、去年のうちにベテランさんが唾つけとるわ」

「……やっぱり、そうですか」

「普通は中等部二年までに見つけるもんやからねぇ。今からスカウト回っても、残り物にありつけるかどうか……」

 

 口調は軽いが、内容はシビアだ。

 俺は苦笑いで返すしかなかった。スタートラインに立つ前から出遅れているのは自覚している。

 

「……じゃあ、どうすれば」

「残っとる選択肢は、だいたいあそこやね」

 

 おばちゃんがペン先で指した先には、廊下の掲示板があった。

 学食の限定メニューや、落とし物の告知に混じって、一枚だけ空気の違う紙が貼られている。

 

『移籍希望リスト』

 

 ガリ版刷りの青いインク。担当契約を解除されたり、引受先を探しているウマ娘たちの名前だ。

 その最下段。

 誰からも見向きもされず、画鋲の周りが黄ばみかけた一枚の紙に、俺の視線が止まった。

 

 ――オペラローリン。

 

 鞄から使い古した戦績ファイルを取り出し、ページを繰る。

 昨秋の萩S快勝。だが、その後の東京と中山での大敗。

 備考欄には、かつてのトレーナーのものらしき、突き放すような評価。

 

『精神的な脆さあり。競り合いに弱く、底が見えたウマ娘』

 

「底が見えた、か……」

 

 文字面だけ見れば、終わったウマ娘だ。

 だが、俺の頭の中で再生される彼女の走りには、奇妙なノイズが混じっていた。

 

 ……違う。脚が限界なんじゃない。

 勝負所であるはずのコーナーの手前で、無意識にブレーキをかけている。

 美しい旋律を奏でるはずの楽器が、次の音を出すのを怖がって、震えているような不協和音。

 彼女は走るのを諦めたんじゃない。どう走ればいいか分からなくて、泣いているだけだ。

 

「……こんな評価で、終わらせてたまるか」

 

 ニ十歳の、実績ゼロの俺に何ができるかは分からない。

 けれど、この雑音だらけの評価の下に、まだ誰も聴いたことのない「澄んだ音」が埋もれている気がした。

 

 気づけば、俺の手は伸びていた。

 古い紙の端を掴み、剥ぎ取る。

 

 バリッ――。

 乾いた音が、冬の廊下に小さく響いた。

 それはまるで、これから始まる長い楽譜の、最初の一小節みたいな音だった。

 

 手の中にあるのは、泥にまみれた可能性の原石。

 ここから始めよう。

 俺と、彼女の物語を。

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