ウマ娘競バ史   作:geko

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第10話:真珠のボタン、皐月の決意

 1971年、4月。

 若葉ステークスを勝ってから、廊下ですれ違う視線の温度が変わった。

 掲示板の前で、彼女の名を指差す声が増えた。

 かつての「失敗作」というレッテルは剥がれ、今や彼女は西の有力候補として、栗東の注目の中に立っている。

 

 けれど、俺の目は、彼女の内側に潜む微かな影を捉えていた。

 

 皐月賞。舞台は再び、あの中山レース場。

 一月の京成杯で、冷たい泥を噛み、絶望の中で坂を登り切ったあの場所だ。

 

「……怖いか、中山」

 

 出発を控えたトレーナー室。俺の問いに、オペラローリンは俺の胸元のシャツを小さく掴み、静かに頷いた。

 

「……はい。あの坂を思い出すと……今でも、呼吸が浅くなるんです。みんなの背中を見送って、自分だけが置いていかれる、あの冷たい感覚が」

 

 若葉ステークスの勝利で自信をつけたとはいえ、身体に刻まれたトラウマは容易には消えない。ましてや次は、日本中の期待が集まるGⅠの大舞台だ。

 そんな彼女の呼吸を整えるように、俺は部屋の隅に掛けられた、カバーのかかった衣装を指差した。

 

「ローリン。これを見てくれ」

 

 俺がカバーを外すと、部屋の空気が一瞬で変わった気がした。

 それは――GⅠという最高峰の舞台へ辿り着いた者だけに許される、彼女だけの「勝負服」だった。

 

◆掌の中の「お守り」

 

 白を基調とし、真珠色の髪を美しく引き立てる淡い意匠。

 派手さはない。けれど、どこか厳かで、それでいて彼女の持つ透明感をそのまま形にしたようなデザインだった。

 

「これ……私の、勝負服……」

 

「ああ。君が自分の脚で勝ち取った、君だけの『正装』だ」

 

 俺は、勝負服の胸元。そこにある小さな、けれど柔らかな光を放つボタンに触れた。

 

「ここ、デザインの申請時に一つだけ無理を言って、質感を変えてもらったんだ」

 

「……真珠の、ボタン」

 

「ああ。本物じゃない。けれど、一番真珠に近い質感を選んだ」

 

 俺は彼女の目を見て、言い聞かせるように告げた。

 

「これは『スイッチ』だ。レース中、もし周りのノイズが大きくなって、不安になったら……一瞬だけ、ここを触るんだ」

 

 彼女が息を呑むのが分かった。

 

「そうすれば、いつもの俺たちの時間に戻れる。君の髪と同じ色だ。視界が濁ったら、ここに戻ってこい」

 

 彼女は恐る恐る、その小さなボタンに指先を触れた。

 ひんやりとした硬い感触。けれど、そこには確かな意思が宿っている。

 

「……私、これ、似合いますか?」

 

「似合うよ。泥にまみれて戦ってきた君が、一番かっこよく見えるように選んだんだから」

 

 俺の言葉に、彼女の顔が微かに赤らむ。

 彼女はハンガーから衣装を外し、そっと胸に当てがった。

 指先から伝わる、しっかりとした生地の厚みと、仕立ての良さ。

 それはまだ袖を通していない彼女にも、ずしりとした「GⅠの重み」を予感させるには十分だった。

 

「……ちょっと、あそこに立ってみてくれないか」

 

 俺は部屋の隅にある、大きな姿見の前を指し示した。

 彼女は戸惑いながらも、勝負服を胸に当てがったまま、鏡の前に立った。

 

 鏡の中。

 そこに映っていたのは、いつもの自信なさげな少女ではなかった。

 真珠色の髪が、白い衣装の光沢と溶け合うように輝いている。

 泥にまみれ、怯えていたかつての「敗残者」の影は、強い光の中にかき消されていた。

 

「……これ、本当に……私、なんでしょうか」

 

 彼女は信じられないものを見るように、鏡の中の自分に問いかけた。

 あまりにも眩しい。自分ごときが、こんな綺麗なものを纏っていいのかという、染み付いた卑屈さが顔を出す。

 

「ああ。これが、本当のオペラローリンだ」

 

 俺は彼女の背後に立ち、鏡越しにその目を見つめた。

 俺の目に映る“音”は、怯えじゃなく、芯のある輪郭を持っていた。

 

「泥を被った過去も、震える足も、全部ひっくるめて――いま、一番輝いている君の姿だ。誰も文句なんて言わせない」

 

 俺の言葉が、鏡の中で彼女の像と重なる。

 彼女はゆっくりと息を吐き、胸元のボタン――冷たい真珠の感触を、もう一度確かめるように強く握りしめた。

 

 これまでの恐怖がすべて消えるわけではない。俺には、彼女の身体がまだ緊張で僅かに強張っているのが分かる。

 けれど、その指先がボタンの冷たさを確かめている間だけは、呼吸が整い、迷いが薄れていく。

 

「あすかさん……。私、この服を信じて、もう一度あそこへ行きます。……勝てるかどうかは、まだわからないけれど……最後まで、あすかさんに見てもらえる走りをしたい」

 

 真珠色の瞳に、静かだが確かな火が灯る。

 

 その言葉を胸に、俺たちはもう一度、中山へ向かう。

 1971年、4月。

 初めての勝負服をその身に纏い、不器用だった少女は、ついにクラシックの頂点を目指す。

 最強の怪物、ヒカルイマイ。

 その巨大な影が待つ、皐月の空へ。

 俺たちの物語は、ここから加速する。

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