1971年、4月3週。中山レース場を吹き抜ける風は、春の気配を含みながらも、鋭く肌を刺す。
ついに迎えた第一冠・皐月賞。
しかし、運命は残酷な数字を俺たちに突きつけた。
電光掲示板に表示された枠順を見たその瞬間、俺の思考が凍りついた。
『8枠18番』
フルゲートの大外。
先団を主戦場とするウマ娘にとって、この最外枠は勝ち筋を細くする。
眼下に見える一番外側のゲート。遥か彼方に霞んで見える内ラチまでの距離が、俺にはやけに遠く感じられた。
最初のコーナーまで距離があるとはいえ、外を回され続ければ距離ロスで終わる。勝つためには、リスクを冒してでも内へ潜り込むしかない。
「……あすかさん?」
隣で俺の袖を掴むローリンの声で、我に返った。
初めての勝負服に身を包んだ彼女の指先は、小刻みに震えている。
俺は自分の動揺を押し殺し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「悪い、少し考え込んでいた。……いいか、ローリン。この枠は確かに厳しい。だが、道はある」
俺は彼女の肩に手を置き、覚悟を決めて告げた。
安全策の大外回しじゃない。勝ちに行くための、修羅の道だ。
「スタートが決まったら、迷わず内へ切れ込め。――一列目の壁が出来る前に、だ。多少強引でもいい、バ群の中に潜り込んで脚を溜めるんだ。外を回らされたら、あの『怪物』には勝てない」
「……はい。あすかさんがそう言うなら、私、行きます」
そのまっすぐすぎる信頼が、今の俺には――眩しくて、痛かった。
◆皐月賞(GⅠ・中山芝2000m)
ファンファーレが鳴り響き、18枚の扉が一斉に跳ね上がる。
そして皮肉にも、彼女のスタートは完璧すぎた。
「……速い!」
思わず声が漏れる。抜群の加速で飛び出したローリンは、俺の指示を忠実に守ろうと、内へ切り込むように進路を取った。
だが――その一完歩目から、嫌な予感がした。
逃げを狙うウマ娘たちが殺到し、想定を遥かに超えるハイペースが出来上がる。
彼女の真面目さが仇になった。引くに引けず、進むに進めず。
ローリンは激流のような先行争いに真っ向から飲み込まれ、揉みくちゃにされた。
音は届かない。だが、画面の中で肩が弾かれた動きが、衝撃の大きさを物語っていた。
俺には見える。彼女の肺が悲鳴を上げ、筋肉が急速に酸素を失っていくのが。
(馬鹿か、俺は……!)
18人が殺到するGⅠの先行争いで、「内へ潜れ」なんて。
それは経験の浅い彼女に、お行儀よく火の中に飛び込めと命じたのと同じだ。
「やめろ、ローリン! 下がれ! 深追いするな!」
叫んでも届かない。俺は柵を握りしめるしかなかった。
彼女は、俺の言葉を信じて、必死に位置を取り続けていた。
◆坂の上の現実
第4コーナーを回り、中山の急坂が、そこに待っていた。
その勾配が、前半で無理をしてガス欠になったローリンの脚に、鉛のような重りを巻き付けた。
伸びない。前に進まない。
京成杯では根性で登りきったはずの坂が、今日は絶望的な壁となって、彼女の行く手を阻む。
重くなった脚が、坂の途中で止まりかけた――その時だった。
外から、ヒカルイマイという名の「怪物」が、鈍い地響きを連れて襲いかかってきた。 風が、逆巻いた。
彼女が通り過ぎた瞬間、あたりの空気がゴォッと音を立てて吸い寄せられる。
巨大な質量を持ったダンプカーが横を過ぎたような風圧。
ローリンの華奢な身体が、その暴風に煽られてよろめく。
ただの追い抜きじゃない。嵐が、すべてを薙ぎ倒して去っていった。
ローリンは歯を食いしばり、胸元の真珠のボタンを一瞬だけ握りしめた。
だが、指先のその一瞬すら、すぐにほどけた。
一人、また一人。
背後から迫る影が、ローリンをあっさり抜き去っていく。
かつて泥を噛んで登り切ったあの坂は、今日は冷酷なまでの差を、ただ突きつけてくる。
景色が、遠のく。
……10着。
ゴール後、場内アナウンスが淡々と告げた着順が、胸の奥に沈んだ。
1着、ヒカルイマイ。
掲示板の一番上で、その名だけが冷たく光っていた。
そこには、俺たちがまだ一度も触れたことのない、頂点の輝きがあった。
◆泥の真珠
検量室前。
土と汗で重くなった勝負服を纏ったまま、ローリンは立ち尽くしていた。
俺の姿を見つけると、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出し、泥にまみれた頬を洗った。
「……ごめんなさい。あすかさん、私……せっかく選んでくれた、この服で……っ」
言葉にならない嗚咽。
彼女の手は、胸元のボタンを握りしめていた。
お守りだと渡したその真珠色のボタンは、今は黒い泥にまみれ、光を失っている。
俺は何も言えず、ただ震える彼女を抱きしめた。
俺の指示を、彼女は必死に守ろうとした。その忠実さが、今日の結果を招いたのだ。
輝かせるために着せたこの服を、泥だらけにしたのは俺だ。
二十歳の俺に、何ができた。
彼女の人生を背負うと言いながら、俺はまだ、この“見えすぎる目”の使い方さえ、間違えているんじゃないか。
1971年、4月。
俺たちは、自分たちの現在地を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられていた。
皐月の風は、あまりに冷たかった。