ウマ娘競バ史   作:geko

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第11話:大外枠の陥穽 ※皐月賞

 1971年、4月3週。中山レース場を吹き抜ける風は、春の気配を含みながらも、鋭く肌を刺す。

 ついに迎えた第一冠・皐月賞。

 しかし、運命は残酷な数字を俺たちに突きつけた。

 

 電光掲示板に表示された枠順を見たその瞬間、俺の思考が凍りついた。

 

『8枠18番』

 

 フルゲートの大外。

 先団を主戦場とするウマ娘にとって、この最外枠は勝ち筋を細くする。

 眼下に見える一番外側のゲート。遥か彼方に霞んで見える内ラチまでの距離が、俺にはやけに遠く感じられた。

 最初のコーナーまで距離があるとはいえ、外を回され続ければ距離ロスで終わる。勝つためには、リスクを冒してでも内へ潜り込むしかない。

 

「……あすかさん?」

 

 隣で俺の袖を掴むローリンの声で、我に返った。

 初めての勝負服に身を包んだ彼女の指先は、小刻みに震えている。

 俺は自分の動揺を押し殺し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「悪い、少し考え込んでいた。……いいか、ローリン。この枠は確かに厳しい。だが、道はある」

 

 俺は彼女の肩に手を置き、覚悟を決めて告げた。

 安全策の大外回しじゃない。勝ちに行くための、修羅の道だ。

 

「スタートが決まったら、迷わず内へ切れ込め。――一列目の壁が出来る前に、だ。多少強引でもいい、バ群の中に潜り込んで脚を溜めるんだ。外を回らされたら、あの『怪物』には勝てない」

 

「……はい。あすかさんがそう言うなら、私、行きます」

 

 そのまっすぐすぎる信頼が、今の俺には――眩しくて、痛かった。

 

◆皐月賞(GⅠ・中山芝2000m)

 

 ファンファーレが鳴り響き、18枚の扉が一斉に跳ね上がる。

 そして皮肉にも、彼女のスタートは完璧すぎた。

 

「……速い!」

 

 思わず声が漏れる。抜群の加速で飛び出したローリンは、俺の指示を忠実に守ろうと、内へ切り込むように進路を取った。

 だが――その一完歩目から、嫌な予感がした。

 

 逃げを狙うウマ娘たちが殺到し、想定を遥かに超えるハイペースが出来上がる。

 彼女の真面目さが仇になった。引くに引けず、進むに進めず。

 ローリンは激流のような先行争いに真っ向から飲み込まれ、揉みくちゃにされた。

 音は届かない。だが、画面の中で肩が弾かれた動きが、衝撃の大きさを物語っていた。

 俺には見える。彼女の肺が悲鳴を上げ、筋肉が急速に酸素を失っていくのが。

 

(馬鹿か、俺は……!)

 

 18人が殺到するGⅠの先行争いで、「内へ潜れ」なんて。

 それは経験の浅い彼女に、お行儀よく火の中に飛び込めと命じたのと同じだ。

 

「やめろ、ローリン! 下がれ! 深追いするな!」

 

 叫んでも届かない。俺は柵を握りしめるしかなかった。

 彼女は、俺の言葉を信じて、必死に位置を取り続けていた。

 

◆坂の上の現実

 

 第4コーナーを回り、中山の急坂が、そこに待っていた。

 その勾配が、前半で無理をしてガス欠になったローリンの脚に、鉛のような重りを巻き付けた。

 伸びない。前に進まない。

 京成杯では根性で登りきったはずの坂が、今日は絶望的な壁となって、彼女の行く手を阻む。

 

 重くなった脚が、坂の途中で止まりかけた――その時だった。

 

 外から、ヒカルイマイという名の「怪物」が、鈍い地響きを連れて襲いかかってきた。  風が、逆巻いた。

 彼女が通り過ぎた瞬間、あたりの空気がゴォッと音を立てて吸い寄せられる。

 巨大な質量を持ったダンプカーが横を過ぎたような風圧。

 ローリンの華奢な身体が、その暴風に煽られてよろめく。

 

 ただの追い抜きじゃない。嵐が、すべてを薙ぎ倒して去っていった。

 

 ローリンは歯を食いしばり、胸元の真珠のボタンを一瞬だけ握りしめた。

 だが、指先のその一瞬すら、すぐにほどけた。

 

 一人、また一人。

 背後から迫る影が、ローリンをあっさり抜き去っていく。

 かつて泥を噛んで登り切ったあの坂は、今日は冷酷なまでの差を、ただ突きつけてくる。

 

 景色が、遠のく。

 

 ……10着。

 ゴール後、場内アナウンスが淡々と告げた着順が、胸の奥に沈んだ。

 

 1着、ヒカルイマイ。

 掲示板の一番上で、その名だけが冷たく光っていた。

 そこには、俺たちがまだ一度も触れたことのない、頂点の輝きがあった。

 

◆泥の真珠

 

 検量室前。

 土と汗で重くなった勝負服を纏ったまま、ローリンは立ち尽くしていた。

 俺の姿を見つけると、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出し、泥にまみれた頬を洗った。

 

「……ごめんなさい。あすかさん、私……せっかく選んでくれた、この服で……っ」

 

 言葉にならない嗚咽。

 彼女の手は、胸元のボタンを握りしめていた。

 お守りだと渡したその真珠色のボタンは、今は黒い泥にまみれ、光を失っている。

 

 俺は何も言えず、ただ震える彼女を抱きしめた。

 俺の指示を、彼女は必死に守ろうとした。その忠実さが、今日の結果を招いたのだ。

 輝かせるために着せたこの服を、泥だらけにしたのは俺だ。

 

 二十歳の俺に、何ができた。

 彼女の人生を背負うと言いながら、俺はまだ、この“見えすぎる目”の使い方さえ、間違えているんじゃないか。

 

 1971年、4月。

 俺たちは、自分たちの現在地を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられていた。

 皐月の風は、あまりに冷たかった。

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