皐月賞の翌日。
中山の急坂に、俺たちが積み上げてきた自信は脆くも砕け散った。
トレーナー室の隅、まだ泥の残る勝負服を抱きしめて、オペラローリンは声を殺して泣き続けている。
お守りだと渡した胸元の真珠のボタンだけが、濡れた布の上で、光を失ったまま冷たく濁っていた。
彼女に掛ける言葉を見つけられないまま、俺は冷え切った廊下に立ち尽くしていた。
俺の視界には、彼女の震える肩と、敗北で曇った真珠色の瞳が、残酷なほど鮮明に映っていた。
(俺の目は、一体何のためにあるんだ……)
自責が胸の奥で膨らんでいた、その時。管理棟の事務局から呼び出しがかかった。
重い足取りで向かった先で、俺を待っていたのは温度のない事務的な視線だった。
◆突きつけられた「毒杯」
「神楽坂くん。……皐月賞、見たよ」
管理棟の小さな執務室。
事務局長は書類から顔を上げ、湯呑みの茶を一口すすった。目尻は笑っているのに、瞳の奥だけが冷たく凪いでいる。
「いやあ、惜しかった。移籍リストの隅にいたあの娘を、GⅠの舞台まで連れて行った手腕。……上層部も評価しているよ」
褒め言葉は、甘い飴の形をしていた。
そのまま局長は、別の書類を一枚だけ抜き取り、俺の前にすっと滑らせた。
紙が、机の上で乾いた音を立てて止まる。
「だからね。次もよろしく頼むよ」
「……これは?」
「君のチームに、ひとり入れる。オーナーズタイフウ。大井から来た『暴れウマ』だ」
「……俺が、ですか」
「君が、だよ」
局長は湯呑みを置き、声を潜めるように身を乗り出した。
「表向きの理由は、君の実績を評価しての抜擢だ。――ここまでは、綺麗な話」
視線が、にこりと細くなる。
「本当のところは……扱いづらい。君なら“飲める”と思われた。それだけだ」
嘘は言っていない。だからこそ、やけに重い。
「断れるか? もちろん、規定上はね。……だが、ここで断れば、君は『たまたま相性のいいウマ娘に当たっただけの一発屋』だ。次のチャンスは遠のくだろうね」
俺は言葉を失ったまま、書類に視線を落とす。
オーナーズタイフウ。
その名前を見た瞬間、書類から微かに焦げ付くような匂いがした気がした。
「毒杯だよ。飲めば苦い。だが――飲まないなら、君はここで終わる」
局長は笑った。
笑顔のまま、逃げ道だけを消した。
◆砂を纏った不遜な影
翌朝。霧の立ち込めるトレーナー棟の前に、一人の少女が立っていた。
燃えるような赤褐色の髪を乱暴に束ね、ポニーテールの先が揺れている。
その瞳は獲物を狙う鷹のように鋭く、周囲のすべてを拒絶するように尖っていた。
「……アンタが神楽坂か。随分と頼りねえ面してんな。皐月賞でボロ負けして、泣きべそかいてたんじゃねえのか?」
開口一番、彼女は俺を値踏みするように睨みつけた。
その瞬間、俺の耳に「ザラッ」とした不快なノイズが走った。
ローリンが繊細な弦楽器なら、こいつは歪んだエレキギターだ。
暴力的な音が、頭の奥を揺らす。
俺の目には、彼女の身体が驚くほどしなやか、かつ強靭であることが見えた。
芝の上を滑るための流線型じゃない。深い砂を力ずくでねじ伏せるための、分厚いエンジンの塊だ。
だが同時に見えたのは、極度の集中のムラと、他者を信じようとしない頑なな壁。
「……おーおー。奥にいるのは例の『真珠』か? 泥の匂いがまだ抜けてねえぞ? 湿気ったツラしてんなあ!」
トレーナー室の奥にいるローリンに向けられた、容赦のない言葉。
ローリンはビクリと肩を揺らし、さらに深く自分の殻に閉じこもってしまう。
「タイフウ!」
俺は声を荒らげ、彼女の前に立ちはだかった。彼女の鋭い視線を正面から受け止める。
事務局長に突きつけられた毒杯。だが、受けて立つと決めた以上、主導権は渡さない。
「その減らず口は、勝ってから叩け。……4月4週、羽田杯。お前の古巣、大井だ」
俺の言葉に、タイフウは片眉を跳ね上げた。
「中央(ここ)の看板を背負って、大井の王者に喧嘩を売りに行く。……お前が本当に『旋風』なら、その足で古巣を荒らしてこい」
俺は一歩踏み出し、彼女を睨み返した。
「それまでは――俺が、お前の手綱を握る」
「……へっ。面白え。大井の連中はドいつもコいつも退屈で、砂遊びにもなりゃしねえと思ってたんだ」
タイフウは鼻で笑い、荷物を床に放った。
ドン、と重たい音が廊下に響く。
壊れかけた真珠と、荒れ狂う嵐。最悪の空気の中で――俺は、この毒を飲み干す覚悟を決めた。
逃げ道はない。ここから、俺たちの新たな嵐が始まる。