ウマ娘競バ史   作:geko

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第13話:黒い砂、逆襲のタイフウ ※羽田盃

 中山の敗戦から数日。

 栗東から大井へ向かう急行列車の車内は、重苦しさと喧騒が奇妙に同居していた。

 夜の車窓を眺めながら、ローリンは座席で膝を抱え、できるだけ小さくなっている。中山の坂で砕かれた心は、まだ外の光を拒んでいた。

 一方で新入りのオーナーズタイフウは、硬い座席に深く身体を沈め、周囲の視線などどこ吹く風で、豪快ないびきをかいて眠りこけている。

 

「……あすかさん。私、やっぱりここにいていいんでしょうか」

 

 消え入りそうな声で、ローリンが俺の袖を掴む。

 俺は彼女を栗東に置いていけなかった。今のまま一人にしたら、彼女は二度と部屋から出てこなくなる。そんな予感がしたからだ。

 

「いいんだ。ローリン、お前はただ、隅の方で見ていればいい。無理に表に出る必要はないからな」

 

◆泥沼への凱旋

 

 黄昏時の大井レース場。

 西の空は工場地帯の排煙に汚され、赤黒く染まっていた。

 海からの湿った風が、砂埃を巻き上げている。

 鼻をつくのは、芝の青い香りじゃない。重油と潮風、そして鉄粉の混じったザラついた匂いだ。

 

 俺は待機室の奥――喧騒の届かない影に、ローリンのための椅子を用意した。そこなら、誰の視線にも晒されずに済む。

 彼女は安堵したように、けれど少しだけ寂しそうに、その暗がりに身を沈めた。

 

 俺はタイフウを連れてパドックへ向かった。

 待っていたのは、かつての本拠地からの、熱狂と紙一重の凄まじい罵声だった。

 

「裏切り者が!」

「どの面下げて帰ってきた!」

「十四戦二勝の博打打ちめ!」

「中央で通用しなくて逃げ帰ったか!」

 

 地元の期待を裏切り、毒を吐いて中央へ去った彼女への憎悪。

 普通の神経なら萎縮する場面だ。

 だが、タイフウは怯えるどころか、苛立ちを隠そうともせずに観客席を睨みつけ、荒々しく砂を蹴り上げた。

 

「……へっ。どいつもこいつも、あたしの音(ロック)を何も分かっちゃいねえ」

 

 タイフウは尻尾を叩きつけるように揺らした。

 

 俺の目には、彼女の身体が驚くほどしなやかに波打つのが見えた。砂を掴むための筋肉が、獰猛に連動している。

 ――なのに同時に、意識の焦点が散っていくのも見えた。

 俺が授けた「無理せず脚を溜めろ」という指示は、彼女の耳を素通りしている。

 彼女の脳内には今、観客の怒号を燃料にした、爆音だけが鳴っている。

 

◆羽田盃(JpnⅠ・大井ダ1800m)

 

 羽田盃、スタート。

 ローリンは待機室の隙間から、震える瞳でその光景を見つめていた。

 

 ゲートが弾けた瞬間、タイフウは中央の芝ではありえないような暴力的な加速で先頭を奪う。

 ペース配分など無視。リズムもへったくれもない。

 ただの暴走だ。けれど、その暴走が、大井の黒い砂を切り裂いていく。

 

(……すごい。あんなに言われてるのに、怖くないの?)

 

 中山の坂で他人の気配に怯えたローリンには、敵意の渦へ自分から飛び込み、先頭でギターを掻き鳴らすように爆走するその姿が理解できなかった。

 ――けれど、目を離せない。

 

 しかし、結末は残酷だった。

 前半の無茶な独奏が祟り、最後の直線でタイフウの脚は目に見えて鈍る。

 地元の強豪――タニノカツヒメたちが、失速した彼女を容赦なく飲み込んでいった。

 スタンドからは嘲笑に近い怒号が飛ぶ。

 

 ……結果は8着。

 

 泥だらけになり、肩で息をしながら戻ってきたタイフウは、それでも膝を折らなかった。

 地面に唾を吐き、悔しさを隠そうともせず俺を睨みつける。

 

「……ケッ、見てろよ。次こそは、この砂全部、あたしの色に変えてやるからな」

 

 その不敵な言葉を影で聞いていたローリンの指先が、微かに動いた。

 

◆混じり合う二人の視線

 

 帰り道。泥を落としたタイフウが、不機嫌そうにデッキの隅に座っていた。

 そこへ、ずっと黙っていたローリンが、おそるおそる歩み寄る。

 

「……あの。オーナーズタイフウさん」

「あぁん? なんだよ、真珠のお嬢様。あたしの無様な負けっぷり、笑いに来たのか?」

「……ううん。痛くなかったですか。あんなに、怒鳴られて……」

 

 ローリンの問いに、タイフウは一瞬だけ呆然とし、それから鼻で笑った。

 

「痛えよ。……けどさ」

 

 彼女は窓の外、流れる夜の闇を睨みつけて言った。

 

「無視されるよりはマシだ。あたしはあたしのやり方でしか、生きていけねえんだよ」

 

 無視されるよりは、マシ。

 その言葉は、誰かの視線に怯え、隠れるように生きてきたローリンの胸に、小さな棘のように刺さった。

 

 ローリンは何も言わずに、小さく頷いた。

 指先が、胸元のボタンを探して、触れる寸前で――やめた。

 お守りに頼らなくても、今、彼女の目の前には、傷だらけで立つ「強さ」の形があったからだ。

 

 1971年、春の終わり。

 傷ついたエリートと、泥にまみれた野良犬。

 俺は、正反対の二人を抱えたまま、栗東へ帰還するのだった。

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