1971年、5月。
栗東の山々は、目に鮮やかな新緑に包まれていた。
トレセン学園の空気は、目前に迫る「日本ダービー」の熱に浮かされている。すれ違う者たちは皆、ダービーの話をしていた。
そんな喧騒から背を向けるように、俺は、自分のデスクに置かれた一枚の書類を見つめていた。
『第38回 日本ダービー 登録届』
若葉ステークスの勝利で得た賞金により、オペラローリンにはまだ、その門を叩く権利がある。
けれど、俺の手にあるペンは、一向に署名を書き込もうとはしなかった。
ペン先は署名欄の上で止まり、紙に触れる寸前のまま震えていた。
(……この状態の彼女を、府中の2400メートルに放り込んで、何になる?)
皐月賞、掲示板の外――二桁の着順が、彼女の心に深い傷を刻んでいる。
◆二人の不調和
「……あすかさん、私……」
トレーナー室の隅で、ローリンが消え入りそうな声で俺を呼ぶ。
俺の目には、彼女の筋肉がずっと強張っているのが見えた。まるで何かに怯えるみたいに。
走りたい気持ちだけが、足首のあたりで絡まっている。
「私、もう……負けるのが、怖いです。皐月賞のあと、みんなが“気を遣ってる”のが分かってしまって……」
彼女は自分の腕を抱いた。
「かける言葉を選ばれてるって、分かってしまう。……その優しさが、今は針みたいに刺さるんです」
その隣で、大井で汚した勝負服を乱暴に洗っていたオーナーズタイフウが、苛立たしげに鼻を鳴らした。
「ハッ、湿気ったツラしてんじゃねえよ! 中央のお偉いさんたちの“お祭り”だろ? ビビってねえで、行って暴れてくりゃいいじゃねえか。結果だけ叩きつけて、黙らせりゃいい」
「タイフウさんには、分からないですよ……。私みたいに、期待されて、裏切るのがどれだけ……」
噛み合わない二人。けれど、俺はその不協和音を見つめながら思った。
ローリンにはタイフウの図太さがいる。タイフウには、ローリンの繊細さがいる。
◆奇策:時計のないトレーニング
「……よし。ダービーに出るかどうかは、一旦保留にしよう」
俺の言葉に、二人が同時に顔を上げた。
「出ない、んですか?」
「いや。今のままでは出せない、と言ったんだ。……だから、明日から一週間、いつものトレーニングは一切中止する」
そう言って、俺は二人をコースから連れ出した。
俺が課した奇策は、スピードを競うものでも、スタミナを削るものでもない。
「明日から二人一組で、この栗東の山道を『歩いて』もらう。時計は持たせない。……互いの呼吸が重なるまで、何度でも付き合う。俺は後ろから付いていく。口は挟まない」
俺は二人を見据えた。
「本当に危ない時だけ、止める。それ以外は、二人で合わせろ」
俺の目で揃えるんじゃない。——二人が、自分の呼吸で揃える時間が要る。
助け舟は出さない。二人の呼吸だけを、信じる。
◆山道の沈黙と吐息
翌朝。時計も持たず、二人は山道を歩き始めた。
俺は少し離れた距離から付いていく。足音は、近づきもしないし、離れもしない。
時計の秒針の代わりに、鳥のさえずりと、踏みしめる落ち葉の乾いた音だけがリズムを刻む。
この静寂の中では、互いの荒い呼吸音が、嫌でも耳に届いてしまう。
誤魔化しのきかない、生身の音だ。
「……なあ、なんであたしがこんな、ハイキングみたいなことしなきゃなんないわけ?」
タイフウが不満げに声を荒らげる。
彼女の筋肉は、今すぐにでも弾けたがって収縮を繰り返している。それを無理やり抑え込み、ローリンの頼りない歩調に合わせることは、全力疾走するよりも精神を削る作業だった。
「……チッ。とろくせえな」
対するローリンは、鋭い気性に気圧されながらも、言葉を飲み込んで前を見た。
「……あすかさんがそう言ったから。だから、やります」
「ハッ! 合わせるもクソもねえよ。アンタがトロすぎるんだっての」
最初は、完全な不協和音。
タイフウの足音は硬く乾いていて、ローリンの足音は湿って重い。
タイフウは己のしなやかな脚で勝手に先を急ぎ、ローリンは他人の気配に怯え、歩調を乱して立ち止まる。
何度も息が乱れ、何度も立ち止まり、それでもまた歩き出すうちに。
急峻な坂道で、ローリンの小さな息遣いが、タイフウの荒い息に追いついた。
違うはずの呼吸が、ふと同じ高さで揃った。
「……アンタ、しつけぇな」
タイフウが、ふと足を止めて振り返る。
ローリンは汗に濡れた真珠色の前髪を払い、震える足で彼女の隣に並んだ。
「……私、遅いから。……せめて、タイフウさんの背中だけは、見失いたくないんです」
一人は、他人の足音に怯える少女。
一人は、自分の足音しか聞こうとしない少女。
日本ダービーという巨大な渦を前に、俺はあえて、時が止まったような静寂の中に二人を投げ込んだ。
縮まるのは距離じゃない。——音だ。
この不調和な音が、わずかでも共鳴しなければ。
俺はまだ、『登録届』の署名欄に、ペン先を落とせない。