栗東の山道を歩き始めて、五日が過ぎた。
時計を持たず、ただ互いの吐息と足音だけに耳を澄ませるトレーニング。
俺の感覚には、変化が鮮明に届いていた。
先を急ごうと前のめりだったタイフウの足運びは、隣を歩くローリンのリズムを無意識に探り始めている。
そして、他人の気配に怯えていたローリンの呼吸からは過剰な緊張が抜け、タイフウという「嵐」の熱を、心地よく受け入れ始めていた。
夕暮れ。山を降りてきた二人の足取りは、完全に重なっていた。
ザッ、ザッ、ザッ。
二人いるはずなのに、足音は一つしか聞こえない。
――揃えようとしたわけじゃない。揃ってしまった。
真珠色と鹿毛の影が、一つの生き物のようにシンクロして、職員棟へと伸びる。
山を下りきると、俺は先に職員棟へ回り、トレーナー室の鍵を開けた。
ほどなくして廊下に、リズムの揃った足音が近づいてきた。
「……あすかさん、戻りました」
ローリンが、汗を拭いながら俺の前で立ち止まる。その隣で、タイフウも不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、歩調を合わせた癖が抜けないまま、ローリンの肩に自分の肘を預けていた。
「へっ、こんなの朝飯前だっての。……で、どうすんだよ、若造。そろそろ『あの紙』に名前書くんだろ?」
タイフウが顎で指したのは、事務机の上に置かれた『日本ダービー登録届』だ。
◆最後のチャンス、静かな決断
俺は机に向かい、『登録届』を手に取った。
署名欄の白さが、妙に目に刺さる。指先で署名欄の枠をなぞり、ほんの一瞬だけ呼吸を整えた。
そして、二人の前でそれを引き出しの奥へと仕舞い込んだ。
トン、と音がして、白い署名欄が闇に吞まれた。
「……あすか、さん?」
ローリンの瞳が揺れる。俺は彼女を真っ直ぐに見つめ、静かに告げた。
「ローリン。若葉ステークスで積んだ賞金のおかげで、君にはまだダービーへの道が開かれている。……これは君が泥を啜って掴み取った、紛れもない『権利』だ」
俺は言葉を切り、ローリンの目から逃げなかった。
「だからこそ、今のその賞金は、君がいつか本当の輝きを掴むための『盾』にしたい」
「……盾、ですか?」
「ああ。賞金は、出走権だけのためじゃない。——“待つ”って選択肢も、買えるんだ」
俺の言葉に、ローリンは息を呑んだ。
無理をしてレースに出続けなくても、今の彼女には「休む」ことができるだけの実績がある。それを、次へ跳ぶためのバネに使う。
「5月5週、日本ダービーは回避する。……ローリン、君は京都の『白百合ステークス』に出ろ。GⅠの喧騒から離れた場所で、もう一度『勝つ味』を思い出すんだ」
◆旋風、西へ
「はあ!? 冗談じゃねえぞ、じゃああたしはどうなんだよ!?」
タイフウが身を乗り出して叫ぶ。当然、彼女は自分も大井の『東京ダービー』へ殴り込みに行き、リベンジを果たすつもりでいたのだろう。
「タイフウ、お前もだ。6月1週の東京ダービーは使わない。阪神の『松風月ステークス』に向かわせる」
「……あ、あたしを大井に行かせねえっていうのかよ!? 負け犬のまま終わるなんて真っ平御免だ!」
「今のまま行けば、お前はまた罵声に耳を塞いで自滅する。……大井のノイズに耐えられる耳(こころ)ができるまで、お前は西にいろ」
俺は言い切ってから、少しだけ声を落とした。
「まずはこっちで、本当の自分の力を使い切ることを覚えろ。地元のファンに結果を叩きつけるのは、それからでも遅くない」
タイフウは唇を噛み、近くにあったパイプ椅子を蹴り飛ばした。
ガシャーン、と乾いた音が狭い部屋に響く。
「……チッ」
タイフウは一歩踏み出しかけて、止まった。
代わりに、拳を強く握って、ゆっくりとほどいた。
「……覚えてろよ。もし阪神で勝てなかったら、アンタのそのすかしたツラ、砂まみれにしてやるからな」
ローリンもまた、息を詰めたまま、俺の決断を受け止めようとしていた。
1971年。誰もが栄光の「ダービー」という文字に目を奪われ、若きウマ娘たちを使い潰していく時代。
俺が選んだのは、華やかな東の祭典ではなく、湿った西のターフと砂の上だった。
「賞金という実績があるからこそ、俺たちは遠回りをする権利を持っている。……ローリン、タイフウ。まずはこの関西で、誰にも邪魔されない自分たちの走りを刻んでこい」
沈黙が落ちる。
やがてタイフウが、悔しそうに鼻を鳴らしたまま――小さく頷いた。ローリンもそれに続く。
外に出ると、冷えた夕風が汗を撫でた。
東の空、遥か彼方の東京では、今もヒカルイマイという怪物を筆頭に、同世代の精鋭たちが命を削るような研鑽を積んでいるはずだ。
俺たちが選んだのは、そこからの逃げかもしれない。
けれど、一度足を止めて呼吸を整えた彼女たちが、再び力強く土を蹴り出すとき――その一歩は、迷いの中を彷徨っていたこれまでよりも、ずっと遠くまで届くはずだ。
――俺は、その一歩を信じてみせる。