5月5週、日曜。
京都レース場の空は雲一つない青に染まり、初夏の陽光が淀のターフを鮮やかに照らしている。
日本中の視線が府中の直線に注がれるこの日、俺は――京都で、彼女の足音を待っていた。
白百合ステークス。
出走表を見つめ、俺は短く息を吐いた。
きさらぎ賞の時と同じ――いや、あの時以上だ。
今回の18人の中に、主導権を握りに来ているウマ娘がいない。
誰も前に行こうとしない。互いの出方を探り合う気配が、芝の上に薄い膜みたいに張り付いている。
「ローリン、こっちだ」
地下バ道の薄暗いコンクリートの上、出番を待つ彼女の肩に手を置く。
真珠色の髪が、地下にこもる湿気と、彼女の浅い呼吸に合わせて静かに揺れていた。
「今回も、前に出る。……でも、焦るな。あの山道を思い出せ。タイフウ以上に騒々しい足音なんて、そうそうない」
俺の言葉に、ローリンは驚いたように顔を上げた。
真珠色の前髪の下、不安に揺れていた瞳に、ふわりと温かな色が差す。
「……はい。あすかさん。……私、大丈夫です。あの時、私の呼吸に合わせてくれたタイフウさんの音……忘れてません」
◆静寂の逃走劇
ゲートが弾け、18人の少女たちが淀の芝を叩く。
11番枠から飛び出したオペラローリンは、俺の指示通り、スッと先頭へと躍り出た。
先手を主張する足音がない。みんな、誰かの一歩を待っている。芝の上の音が、薄い。
けれど、今のローリンはその静寂に怯えていなかった。
自分のリズム、自分の足音。
一歩一歩、ターフを踏みしめる感覚を確かめながら、彼女はまるで山道を散策するかのように、先頭の景色を独り占めしていた。
第4コーナーを回り、最後の直線。
平穏な時間はそこで終わる。内から猛然と追い上げてきたのは、7番のシバクサだった。
「……行けっ、ローリン!」
一瞬、シバクサの影がローリンの前に出る。ハナ先だけ、前に出られた。
これまでの彼女なら、ここで心が折れていただろう。背中を見せた相手を追う恐怖に、脚が止まっていたはずだ。
だが、今の彼女は違った。
(……軽い)
俺の目が捉えたローリンの“音”が、そう言っていた。
隣に並ぶシバクサの圧力。それは、あの山道で、全身からイラつきを撒き散らしながら歩いていたタイフウの「圧」に比べれば、驚くほど軽い。
大井の砂で、罵声を浴びながらも先頭を譲らなかった、あの不遜な背中を知っている。
「……負けない……負けたくない……っ!」
執念。
真珠色の脚が、再び淀のターフを力強く叩いた。
一度は離された差を自らの意志で詰め寄り、最後の一歩。彼女はシバクサのハナ面を、根性だけで差し返した。
◆白百合の輝き
1分48秒2。
写真判定の末、ハナ差の激闘を制した彼女の名前が、掲示板の一番上に灯った。
場内のスピーカーからは、遠く東京で行われた日本ダービーの実況中継が、微かなノイズ混じりで流れていた。
ヒカルイマイの二冠達成を伝える、熱狂的なアナウンス。
東京では今、歴史が動いているのかもしれない。
だが今の俺たちには、その熱狂は遠い国の出来事みたいに聞こえた。
目の前のこの「ハナ差」の方が、ずっと重い。
検量室前。
戻ってきたローリンは、汗に濡れた真珠色の髪を輝かせ、誰よりも先に俺を探していた。
まっすぐに駆け寄る彼女の手は、もう冷たく震えてなどいない。
「……あすかさん! 私……私、勝ちました……!」
「ああ、よくやった。……守りきったな、その盾を」
立ち止まって、呼吸を整えて。
彼女はもう一度、自分の足で前へ出た。
迷いの中、他人の顔色を伺って縮こまっていた一歩が、今日は確かに、遠くまで届いている。
真珠のボタンに触れなくても、もう迷わない――そんな顔をしていた。
ローリンは自信を取り戻し、俺たちは“再起”の階段に、白百合の誓いを刻んだ。
次は、6月1週。
阪神の砂の上で、あの毒を吐く『旋風』が、今度こそ自分の色を見せる番だ。