ウマ娘競バ史   作:geko

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第16話:初夏の誓い ※白百合ステークス

 5月5週、日曜。

 京都レース場の空は雲一つない青に染まり、初夏の陽光が淀のターフを鮮やかに照らしている。

 日本中の視線が府中の直線に注がれるこの日、俺は――京都で、彼女の足音を待っていた。

 

 白百合ステークス。

 出走表を見つめ、俺は短く息を吐いた。

 きさらぎ賞の時と同じ――いや、あの時以上だ。

 今回の18人の中に、主導権を握りに来ているウマ娘がいない。

 誰も前に行こうとしない。互いの出方を探り合う気配が、芝の上に薄い膜みたいに張り付いている。

 

「ローリン、こっちだ」

 

 地下バ道の薄暗いコンクリートの上、出番を待つ彼女の肩に手を置く。

 真珠色の髪が、地下にこもる湿気と、彼女の浅い呼吸に合わせて静かに揺れていた。

 

「今回も、前に出る。……でも、焦るな。あの山道を思い出せ。タイフウ以上に騒々しい足音なんて、そうそうない」

 

 俺の言葉に、ローリンは驚いたように顔を上げた。

 真珠色の前髪の下、不安に揺れていた瞳に、ふわりと温かな色が差す。

 

「……はい。あすかさん。……私、大丈夫です。あの時、私の呼吸に合わせてくれたタイフウさんの音……忘れてません」

 

◆静寂の逃走劇

 

 ゲートが弾け、18人の少女たちが淀の芝を叩く。

 11番枠から飛び出したオペラローリンは、俺の指示通り、スッと先頭へと躍り出た。

 先手を主張する足音がない。みんな、誰かの一歩を待っている。芝の上の音が、薄い。

 けれど、今のローリンはその静寂に怯えていなかった。

 自分のリズム、自分の足音。

 一歩一歩、ターフを踏みしめる感覚を確かめながら、彼女はまるで山道を散策するかのように、先頭の景色を独り占めしていた。

 

 第4コーナーを回り、最後の直線。

 平穏な時間はそこで終わる。内から猛然と追い上げてきたのは、7番のシバクサだった。

 

「……行けっ、ローリン!」

 

 一瞬、シバクサの影がローリンの前に出る。ハナ先だけ、前に出られた。

 これまでの彼女なら、ここで心が折れていただろう。背中を見せた相手を追う恐怖に、脚が止まっていたはずだ。

 だが、今の彼女は違った。

 

(……軽い)

 

 俺の目が捉えたローリンの“音”が、そう言っていた。

 隣に並ぶシバクサの圧力。それは、あの山道で、全身からイラつきを撒き散らしながら歩いていたタイフウの「圧」に比べれば、驚くほど軽い。

 大井の砂で、罵声を浴びながらも先頭を譲らなかった、あの不遜な背中を知っている。

 

「……負けない……負けたくない……っ!」

 

 執念。

 真珠色の脚が、再び淀のターフを力強く叩いた。

 一度は離された差を自らの意志で詰め寄り、最後の一歩。彼女はシバクサのハナ面を、根性だけで差し返した。

 

◆白百合の輝き

 

 1分48秒2。

 写真判定の末、ハナ差の激闘を制した彼女の名前が、掲示板の一番上に灯った。

 

 場内のスピーカーからは、遠く東京で行われた日本ダービーの実況中継が、微かなノイズ混じりで流れていた。

 ヒカルイマイの二冠達成を伝える、熱狂的なアナウンス。

 東京では今、歴史が動いているのかもしれない。

 だが今の俺たちには、その熱狂は遠い国の出来事みたいに聞こえた。

 目の前のこの「ハナ差」の方が、ずっと重い。

 

 検量室前。

 戻ってきたローリンは、汗に濡れた真珠色の髪を輝かせ、誰よりも先に俺を探していた。

 まっすぐに駆け寄る彼女の手は、もう冷たく震えてなどいない。

 

「……あすかさん! 私……私、勝ちました……!」

「ああ、よくやった。……守りきったな、その盾を」

 

 立ち止まって、呼吸を整えて。

 彼女はもう一度、自分の足で前へ出た。

 迷いの中、他人の顔色を伺って縮こまっていた一歩が、今日は確かに、遠くまで届いている。

 真珠のボタンに触れなくても、もう迷わない――そんな顔をしていた。

 ローリンは自信を取り戻し、俺たちは“再起”の階段に、白百合の誓いを刻んだ。

 

 次は、6月1週。

 阪神の砂の上で、あの毒を吐く『旋風』が、今度こそ自分の色を見せる番だ。

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