1971年6月1週。阪神レース場の空は厚い雲に覆われ、湿り気を帯びた空気が重く立ち込めていた。
大井の東京ダービーを捨ててまで、俺がタイフウを放り込んだのは――中央の砂、松風月ステークスだった。
荒れた『旋風』が、初めてそのしなやかな翼を正しく広げるその時が来た。
阪神レース場。
地下バ道の冷たい空気の中で、オーナーズタイフウは不機嫌そうに鼻を鳴らし、しなやかな脚でコンクリートを蹴り続けていた。
「……ケッ、なんであたしがこんなところで走らなきゃなんねえんだよ。今頃大井じゃ、あたしの帰りをみんなが待ってるってのにさ」
相変わらずの憎まれ口。
けれど、俺の目には、彼女の筋肉の収縮が、あの大井の時とは決定的に違うのが見えていた。
常に張り詰めていた“赤いノイズ”が消え、必要な音だけが鳴っている。
「大井に戻りたいなら、まずここで勝て。……それとも、どうした? お前の根性は、その程度だったのか?」
俺の挑発に、タイフウの瞳に鋭い火が灯る。
「……あぁん?」
「ローリンを見ろ。あいつはお前とのあの『ハイキング』を完璧にモノにしてみせたぞ。先週の白百合ステークス、あいつは自分のリズムで勝った。……お前にそれができないはずはないだろ?」
「……フン、言ってくれるじゃねえか、あすかさん」
タイフウはニヤリと口角を吊り上げ、俺の胸元を拳でコツンと小突いた。
「要は、周りの雑音(ノイズ)を聞いて、それに飲まれるんじゃなく――あたしのビートで支配しろってことだろ。……見てな。中央のヌルい連中に、本物の『ロック』ってやつを聞かせてやるよ」
◆松風月ステークス(OP・阪神ダ1200m)
ゲートが跳ね上がった瞬間、タイフウは天性の行きっぷりで先頭へと踊り出た。
13番枠からの好スタート。だが、大井の時のような自滅的な暴走ではない。
彼女は耳を立てていた。
背後から迫る少女たちの蹄音、呼吸、砂を蹴る音。
それらすべての「音」を、山道でローリンの歩調を感じ取った時のように、自分のリズムの中に取り込んでいく。
「……いいぞ、タイフウ。その呼吸だ」
1200メートルの電撃戦。一瞬の判断ミスが命取りになる極限のスピードの中で、彼女は一瞬だけ、フッと息を抜いた。
減速ではない。無駄な力みだけを捨てた。
俺の目には、彼女の周囲に渦巻いていた赤いノイズが完全に消え、台風の目のような「静寂」が生まれたのが見えた。
それは、己のしなやかさを信じ、爆発の瞬間まで力を溜める「旋風」の深呼吸だった。
◆直線の咆哮、真実の旋風
最後のコーナー。溜め込んだエネルギーを一気に解放する時が来た。
外からメジロヒマラヤが猛然と襲いかかる。
「……今だ、行け、タイフウ!」
俺の叫びに呼応するように、タイフウの身体が弓のようにしなり、砂塵を切り裂いて加速した。
静寂が弾け、爆音が鳴り響く。
最後の直線。脚はもう限界のはずだった。心臓は悲鳴を上げ、視界は砂塵に霞む。
けれど、旋風は止まらない。沈まず、裂いて、ただ前だけを見据えて黒い砂を叩き続ける。
……1分13秒3。
最後は追いすがるメジロヒマラヤを、唸るような根性でねじ伏せた。
並ばれてからが強かった。アタマの差だけ、タイフウの意地が前に出ていた。
検量室前。
戻ってきたタイフウは、泥だらけの顔を歪ませて、不敵に笑った。
「……ハァ、ハァ……どうだよ、あすかさん。あたしの足音、あいつらには聞こえもしなかっただろ?」
「ああ。……最高の旋風だったよ、タイフウ」
俺が賞賛の言葉を贈ると、彼女は「ふん」と鼻を鳴らし、泥だらけのグローブで俺の綺麗なシャツの胸元を、バンと叩いた。
白いシャツに、べっとりと黒い手形が付く。
泥の熱さが、シャツ越しに肌へ伝わった。
「……勘違いすんなよ。これは手付金だ。次も勝たせてくれなきゃ、承知しねえからな」
悪態をつきながらも、その口元は隠しきれない笑みで緩んでいた。
シャツに残った黒い手形が、熱を持ったまま乾いていく。
俺が率いるチームは、バラバラだったパズルが噛み合うように、一つの形になり始めていた。
これで、西の地盤は固まった。
次は――夏を超え、秋の菊へ向かう季節が始まる。