6月、初夏の風がトレセン学園栗東校を吹き抜けていく。
白百合ステークスでローリンが勝ち、松風月ステークスでタイフウが勝った。
二週連続の勝利という快挙に、それまでは遠慮がちに“言葉を選ばれていた”空気も、少しずつ祝福の熱に変わり始めていた。
二つの勝利。それは、バラバラだった俺たちのチームが、初めて同じ熱量を分かち合った瞬間だった。
トレーナー室、真珠色の髪を揺らして手入れをしていたオペラローリンと、不機嫌そうに窓辺で空を眺めていたオーナーズタイフウ。
その静寂を破ったのは、タイフウだった。
「……なあ、あすかさん」
タイフウが、窓枠に肘をついたまま俺を振り返る。その瞳には、かつてのような尖った敵意ではなく、不遜な甘えが混じっていた。
「あたしとお嬢様、二週続けて勝ったんだぜ。……なんか『ご褒美』、くれてもいいんじゃねえの?」
「ご褒美?」
俺が聞き返すと、トレーナー室の奥でブラシを動かしていたローリンの手が止まった。
彼女はブラシを置いて、パタパタと小走りで俺たちの元へ駆け寄ってくる。
「……あ、あの! タイフウさんが何か貰うなら……私、も」
ローリンが、そっと自分の胸に手を当てて、こちらを見た。
勝負服のボタンはない。けれど、彼女は自分の中にある“芯”を確かめるように、ジャージの胸元をギュッと握りしめた。
「私も、あすかさんと……その、一緒の時間がいいです」
物をねだるんじゃない。ただ、置いていかれるのが寂しい子供のような瞳。
俺は二人の顔を見比べ、苦笑した。
泥を啜り、山道を歩き、自分たちの殻を破って掴んだ二つの勝利だ。これくらいの我がままは、トレーナーとして受け入れるべきだろう。
「……分かった。今日は練習も上がりだ。三人で外へ食べに行こう」
◆1971年、街の洋食屋にて
俺が二人を連れて向かったのは、街外れにある煉瓦造りの老舗洋食屋だった。
カラン、とドアベルが鳴る。
飴色に磨かれた木の床と、白いテーブルクロス。この店は洋食屋でありながら、昼下がりには喫茶の顔も持っているらしい。
どこか懐かしくも格式張った店内で、私服に着替えた二人は、少しだけ落ち着かない様子で椅子に座った。
メニューを開くと、タイフウは肉料理の頁で指を止め、ローリンは喫茶の欄に視線を滑らせた。
注文を済ませ、運ばれてきた冷たい水をひと口。カトラリーの触れ合う音だけが、店内に静かに落ちていく。
「……へっ、気取った店。あたしは大井の屋台の煮込みの方が性に合ってるんだけどな」
そう言いながらも、タイフウは運ばれてきた分厚いステーキの、ジュウジュウと脂が跳ねる音に喉を鳴らしている。
口では悪態をついているくせに、目だけが正直だった。
一方で、ローリンの前にはオムライスと、鮮やかな緑色のソーダ水に丸いアイスクリームが浮かんだクリームソーダが運ばれてきた。
「……綺麗。これ、飲んでしまうのがもったいないです」
グラスの中でシュワシュワと弾ける無数の泡。
照明を受けて輝くその粒は、彼女の真珠色の髪と重なって見えた。
彼女は宝石箱でも見るような瞳でそれを見つめ、ふと顔を上げて、はにかむように呟いた。
「……私、あすかさんとこうしてご飯を食べるの……夢みたいです」
「夢じゃないよ。これは、二人が自分で掴み取った現実だ。……さあ、冷めないうちに食べよう」
俺がそう言うと、二人は同時にフォークを動かし始めた。
◆混じり合う呼吸
タイフウの食べ方は豪快だった。
ナイフで肉を切り裂き、競り合いに勝ったあとみたいに、遠慮なく頬張る。大井のハングリー精神が、そのまま食欲になったような食べっぷりだ。
対するローリンは、大切そうにオムライスを一口ずつ口に運ぶ。
正反対の二人。けれど、俺の目には、二人の身体に溜まっていた強張りが、美味しい料理と柔らかな時間の中で、ゆっくりと解けていくのが見えた。
「……アンタ、さ。白百合の時、いい根性してたじゃん」
タイフウが、口の周りにソースをつけたまま、不意にローリンを見た。
「……え?」
「あたしの足音にビビってた奴が、最後の一歩で差し返すなんてさ。……まあ、あたしの足音(ロック)に比べりゃ、まだまだ小せえけどな」
ぶっきらぼうな賞賛。
けれど、その口元はソースで汚れている。ローリンはクスリと笑うと、自分のハンカチを取り出した。
「……ふふ。タイフウさん、お口、ついてますよ」
自分でも驚いたみたいに一瞬だけ指が止まって、それから――自然に手が伸びた。
彼女はためらいなく、タイフウの口元のソースを拭った。
「あ? ……っ!?」
タイフウがのけぞる。
かつて他人の接触を何より恐れていたローリンが、自分から触れた。その事実に、タイフウの方が虚を突かれている。
「……じ、自分でやるよ!」
タイフウは顔を背け、乱暴に自分のナプキンで口を拭ったが、その耳は僅かに赤らんでいた。
ローリンは嬉しそうに目を細める。
「……ありがとうございます、タイフウさん。私……タイフウさんと歩いた山道があったから、最後まで頑張れたんです」
幸せそうな二人を眺めながら、俺は冷めたコーヒーを口にした。
一人は、エリートの期待を背負い、一度は挫折した真珠。
一人は、地方で「厄介者」と疎まれ、中央へ流れてきた嵐。
境遇は違えど、二人は今、俺という新米トレーナーの元で、確かに自分の居場所を見つけ始めている。
「……あ、あの、あすかさん! 次のレースも、私、頑張りますから……!」
「ああ。あたしもだ。次はもっと派手に、アンタの目を驚かせてやるよ」
夕暮れの洋食屋。窓の外には、これから訪れる熱い夏を予感させるような、濃い藍色の空が広がっていた。
静かで熱い夏が――“勝つための音”を積み上げる季節になる。