1971年、6月3週。
梅雨の晴れ間、栗東校の緑は一層色濃く、湿った空気が熱を帯びて肌にまとわりつく。
オペラローリンとオーナーズタイフウ、二人の少女がそれぞれのリベンジを果たし、ようやく一つのチームとして呼吸が揃い始めた――その矢先のことだった。
その日の午後。俺は、職員棟の一角にある静かな応接室に呼び出されていた。
そこにいたのは、黒田剛志という一人のトレーナーだった。
黒田トレーナー。その名を知らぬ者は、この栗東にはいない。
『質実剛健』――黒田トレーナーのチームを評する言葉は、それしかなかった。
古風で厳しい男。彼の育てるウマ娘たちは、派手さこそないものの、泥に塗れても黙々と走り抜く強靭な精神を宿している。
新米である俺にとって、それは雲の上の存在からの呼び出しだった。
「神楽坂君。急に済まないな」
黒田トレーナーの声は低く、腹の底に響くような威厳があった。
漂うのは、使い込まれた革と、消えきらない渋い残り香。俺は椅子に深く腰掛けることもできず、背筋を正して彼の言葉を待つ。
「君のチームの働きは、遠目からだが拝見させてもらっている。……特にあの、大井から来たじゃじゃウマ娘。あれを見事に御した手腕、感服したよ」
「……いえ。俺はただ、彼女たちの『音』――呼吸と癖を、聞こうとしただけですから」
俺は慎重に言葉を選んだ。俺の目には、黒田トレーナーの鍛え上げられた拳のタコや、一分の隙もない立ち居振る舞いが、彼の積み上げてきた時間の重みとして映っていた。
◆予期せぬ移籍の打診
「単刀直入に言おう。……私のチームにいる一人のウマ娘を、君の元へ移籍させてはもらえないか」
「移籍、ですか……?」
予想だにしなかった言葉に、俺は思わず聞き返した。
黒田トレーナーの説明によれば、そのウマ娘は一ヶ月後、福島開催の7月3週にメイクデビュー戦を控えているジュニア級だという。
「……あの子は、無垢すぎるのだ」
黒田トレーナーは、自身の分厚い掌を見つめ、苦渋を滲ませて言った。
「私の育成論は『剛』だ。耐えて、忍んで、鋼のような精神を作る。……だが、あの子は違う。新しいおもちゃを見つけた子供のように、ただ走り出してしまう」
彼は眉間を揉んだ。
「雨が降れば、それを楽しみ。風が吹けば、それと遊ぶ。……私の厳格な規律は、彼女のその自由な翼を折ってしまうだろう。私が教えられるのは『義務』としての走りだけだ。だが、彼女に必要なのは……」
彼は顔を上げ、射抜くような眼差しで俺を見た。
「君のような、ウマ娘の個性に寄り添う『柔』の感性だ。……君なら、あの子の好奇心を殺さずに、育てられるかもしれん」
それきり彼は口をつぐんだ。
湯呑みを置く手が、わずかに止まる。
長い沈黙の後――深く、頭を下げた。
「……頼めるか」
その姿に、俺は言葉を失った。
質実剛健を謳うベテランが、自身の指導法との相性の悪さを認め、プライドを捨てて若輩者に頭を下げている。
それは、何よりもそのウマ娘の無垢な才能を愛し、守ろうとする不器用な愛情の証だった。
「……今の俺のチームは、ローリンとタイフウで手一杯です。ですが……」
即座に断ることはできなかった。目の前の男の覚悟が、あまりに重かったからだ。
◆差し伸べられた「助け舟」
迷う俺を見透かしたように、黒田トレーナーは顔を上げ、静かに告げた。
「分かっている。君一人に負担を押し付けるつもりはない。……そこでだ。彼女の専属バレットも、セットで君のチームに貸し出そう」
「……バレット?」
「ああ。身の回りの世話係だ。私の姪が務めている」
黒田トレーナーは、どこか懐かしむような目で言った。
「名は黒田由衣という。私とは違って、柔らかい子だ。……あの子はずっとそのウマ娘の世話をしてきた。扱いも慣れているし、事務処理も正確だ」
俺の心が、揺れた。
二人のウマ娘のケア、トレーニングメニューの策定、そしてレースの分析。解像度の高い「目」があるからこそ、見えてしまう分だけ、整理が追いつかず、心が摩耗していたのも事実だ。
もし、そのウマ娘を熟知した優秀なスタッフが手伝ってくれるなら、それは喉から手が出るほど欲しい助力だった。
「デビュー戦を見てから決めてくれて構わない。彼女が君の目にどう映るか。答えはそれからでいい」
黒田トレーナーはそう言い残し、迷いのない足取りで部屋を去っていった。
残された俺の手は、一枚の資料だけを、強く握りしめていた。
『キョウエイグリーン』
一ヶ月後。
俺たちのチームに加わるかもしれない、無垢で自由な「緑の風」。
そして、やってくる新しいスタッフ、黒田由衣さん。
静かな波紋が、俺の夏を、じわじわと揺らし始めようとしていた。