剥がしたばかりの移籍リストを握りしめ、俺はオペラローリンを探しに管理棟の外へ出た。……出たはいいが。
学園の配置も、どこに誰がいるのかも、俺はまだ何ひとつ知らない。
勢いだけで行動してしまった。さっき案内されたばかりなのに、中に引き返すのもバツが悪い。
立ち尽くしていると、向かい側からウマ娘が一人、タオルを肩に掛けて歩いてきた。ジャージ姿で、頬が少し赤い。練習上がりだろう。
「すみません、ちょっと――」
声をかけると、彼女はすぐ足を止めた。
俺の顔と胸元のバッジを見て、少しだけ目を丸くする。
「新任のトレーナーさん……ですか? 今日から?」
「……ああ。そうなんだけど、早速迷ってて」
情けなく言うと、彼女は困ったみたいに笑った。
「ここ、まだ新しいから。案内板、分かりにくいんです」
その優しさに甘えて、俺は紙を少しだけ見せる。
「オペラローリンって子、知ってるか」
名を口にした瞬間、彼女の表情に困ったような色が浮かんだ。
嫌悪感じゃない。どう扱っていいか分からなくて、戸惑っているような顔だ。
「……知ってます。放課後は、本館の……入って右、です。高等部棟の自習室。窓際の席」
「自習室、か」
「……最近、ひとりのことが多くて。たぶん、そこなら」
「助かった。ありがとう」
「いえ……あの」
彼女は何かを言いかけて、けれど言葉が見つからない様子で、寂しげに眉を下げた。
結局、彼女は「失礼します」とだけ言って、静かに去っていった。
その背中からは、冷たさではなく、声をかけたくてもかけられないもどかしさが伝わってくる。
生徒同士が冷淡なわけじゃない。ただ、今のオペラローリンが纏う停滞した空気が、周囲の優しささえも弾いてしまっているのだろう。
◆
俺はリストを握り直し、本館に向かって歩き出す。
放課後の喧騒はとうに去り、冬の夕刻に沈んだ砂利道は、俺の足音だけをやけに大きく響かせた。
見取り図の『本館』の文字が、夕方の光に白っぽく浮いている。
扉を押して中へ入ると、外よりも少しだけ暖かい空気が、乾いた廊下に滞っていた。
――入って右。さっきの言葉を、頭の中でもう一度なぞる。
曲がった先は、高等部棟へ続く渡り廊下だった。空気が、少しだけ変わる。
木の床がきしみ、遠くで誰かの笑い声が聞こえる。
その奥、灯りの薄い区画に『自習室』の札が見えた。
自習室の引き戸を、俺は躊躇いながらも静かに引く。
夕闇の迫る室内で、そこだけが淡く発光しているかのように見えた。
冬の弱い光を透かす、気高い真珠色の髪。
指先まで凍りついているかのような、透き通るほどの色白の肌。
机に広げられた一枚の紙を見つめたまま、彼女は微動だにしない。
「……オペラローリンさん、だね」
声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、紙を隠すように両手で覆った。
こちらを振り返る瞳は、刺々しい。けれどその奥で、もう何日も眠っていないみたいな影が揺れている。
「……私に時間を使わないでください。期待しても、応えられないから」
拒絶の声は、ひどく掠れていた。
「私、もう――『結果が出ない子に、居場所なんてない』って。そういうチーム、だったから」
突き放すような冷たい言葉とは裏腹に、その指先は小刻みに震えている。
彼女が隠そうとした紙が、隙間から覗いた。
そこには『京成杯』の文字と、空欄のままの担当者署名欄。
「……京成杯。まだ、登録は残ってるんだな」
俺が呟くと、彼女は自嘲気味に口元を歪めた。
「嫌がらせですよ。前の担当トレーナーが、最後に言ったんです。『登録だけは残してやるから、恥をかきたければ一人で中山へ行け』って」
彼女は視線を膝に落とす。
「……だから私は、ただの個人扱いになる」
その言葉の意味を理解して、俺は息を呑んだ。
学園のルールは冷徹だ。担当のサインがない者は、遠征バスの名簿にも、現地の動線にも載らない。
宿の手配も、入構証も、学園名義では一切出ない。
名簿に名前がない者は、“最初からいない”ものとして扱われる。
「一人で行け」は、行ける場所を示す言葉じゃなく、居場所を奪う宣告だった。
栗東から中山へ。――少女一人がこなせるほど、近い旅じゃない。
「俺に、その旅の、手伝いをさせてくれないか」
「……っ、」
「唐突なのは分かってる。でも、君の身体は――まだ走れるって言ってる。俺には、そう見えるんだ」
彼女は怪訝そうに眉を寄せた。
「……あなた、失礼ですけど、若いですね。本当にトレーナーなんですか? ……私を見に来たの、冷やかしじゃないですよね」
「……二十歳だ。昨日、ライセンスが届いた。実績も経験も、何もない」
俺は正直に、自分の「若さ」をさらけ出した。嘘をついても、彼女の鋭い感受性はすぐに見抜くだろう。
「だが、俺の目には見えた。君の負けは、スタミナが尽きて止まったんじゃない。ひとりで風を受け続ける形を押しつけられて、気持ちのほうが先に折れた……そうだろ?」
彼女の真珠色の前髪が、戸惑いに揺れる。
喉まで出かかった言葉を、俺は一度飲み込んだ。
余計なことは言うな。また嫌われるぞ。俺の中の警告音が鳴る。
だが、目の前の少女は、今にも消えてしまいそうなほど脆く、美しい。
俺は、染み付いた「沈黙の癖」を、無理やりねじ伏せた。
「……お節介を言う。嫌われるのは慣れてるから、言わせてくれ」
俺は一歩、踏み込んだ。
「君は前に出て風を受けるより……誰かの後ろで一回溜めて、最後に解くほうが合う。中山の急坂だって、前が止まった瞬間に仕掛ければ、君の武器になるはずだ」
決めつけはしない。だが、俺の中にある「答え」を、迷わずに提示する。
「京成杯で、試させてくれ。俺と一緒に、答えを探しに行こう」
沈黙が教室に満ちる。
彼女は俺を疑うように、値踏みするように見つめ、やがて力なく視線を落とした。
「……信じる根拠なんて、どこにもないけれど。……でも、このままここで一人で震えていても、京成杯のゲートは開かない」
彼女は折れるようにそう言うと、震える手で机の上の登録名簿を俺の方へ押しやった。
「一度だけ……中山まで、連れて行ってください。そこで何も変わらなかったら、その時は、覚悟します」
その指先が、偶然、俺の手に触れる。
驚くほど冷たいのに、離そうとすると熱が追いすがってくる感触。
「……トレーナー、さん。本当に、あの坂の上まで、行けるんでしょうか」
まだ、信頼なんて言葉には程遠い。
けれど、絶望の淵で差し出された俺の手を、彼女は確かに掴み取った。
1971年、冬。
不器用な契約と、嘘のような本当の物語が、ここから静かに動き始める。