1971年、7月3週。
夏の福島レース場、芝1200メートル。
梅雨明け前の雨がターフを叩き、福島の芝は稍重まで沈んでいた。息を吸うたび湿気が肺に貼りつく中、俺は、チームの面々と共にパドックを見守っていた。
「……あすかさん。あの娘、あんなに雨が降っているのに、ちっとも嫌がっていないみたいです」
オペラローリンが、雨粒に濡れる真珠色の前髪を払いながら呟く。彼女の視線の先には、最内1番枠に収まるキョウエイグリーンの姿があった。
闘志を燃やすというより、遠足を待つ子供のような顔だ。
「フン、お嬢様。嫌がるどころか、あいつ……笑ってやがるぜ。中央の雨なんて、大井の砂に比べりゃ遊びみてえって顔だ」
オーナーズタイフウが不敵に笑う。だが、その目は笑っていなかった。
同じ短距離を走る者としての本能だろう。彼女はグリーンの脚を凝視し、小さく舌打ちした。
「……チッ。なんだあいつの筋肉。ゴムまりでも入ってんのか?」
俺の目にも、それは見えていた。
雨で滑るはずの芝を、弾むみたいに噛んでる。脚が沈まない。跳ねる。
このコンディションさえも、彼女にとっては新しい遊具に過ぎないのだ。
◆影の立役者、黒田由衣
「グリーンちゃんは、新しいもの好きですからね。雨の降るバ場も楽しんでいるんだと思います」
背後からかけられた声に、俺たちはビクリと肩を揺らした。
気づけば、いつの間にか背後にいた。声だけが、すっと割り込んできた。
そこに立っていたのは、一週間前に黒田トレーナーの元から補助スタッフとして派遣されてきた、黒田由衣さんだった。
20代半ばの、小ざっぱりとした身なりの女性。質実剛健な黒田トレーナーの姪だという彼女は、驚くほど腰が低く、それでいて空気のように場に馴染む。
「神楽坂さん。準備、整いました。……彼女が今、何を『楽しい』と思って走っているのか――見てあげてください」
由衣さんは俺に微笑み、一歩下がって頭を下げた。
補助スタッフという立ち位置を弁え、チームの綻びをそっと埋める黒子(バレット)のプロ。その存在は、若手の俺にとって、暗闇を照らす灯火のようだった。
◆雨を切り裂く、九バ身の独走
メイクデビュー戦、芝1200メートル。
ゲートの中に、その少女はいた。
キョウエイグリーン。
俺の目には、彼女がただ走ることを心から楽しみ、その先にある「まだ見ぬ景色」を渇望しているのが見えた。
ゲートが弾けた瞬間。1番枠のグリーンは、雨のカーテンを切り裂いて飛び出した。
駆け引きの入り込む隙がない。最初の一歩から、速さが答えを突きつけてくる。
「……ずっと、先頭……」
ローリンが呆然と呟く。
グリーンはスタートから一度も先頭を譲ることなく、福島特有の小回りなコーナーを、ただ走る喜びを爆発させるように駆け抜けていく。
後続の足音すら届かない場所。
彼女は雨粒に打たれることさえ厭わず、目の前に広がる真っ新なターフを全身で謳歌していた。
直線に入っても、その足取りはさらに力強さを増していく。稍重の路面を苦にせず、ただ前へ、前へと突き進む彼女の背中は、追随を許さない自由そのものだった。
ゴール板を通過したとき、掲示板に表示された着差は、メイクデビュー戦としては異例の9バ身。
1分12秒2。
雨を切り裂いた1番人気の閃光に、スタンドからはどよめきが沸き起こった。
検量室の前。
戻ってきたグリーンは、びしょ濡れになった身体を震わせることもなく、息一つ乱していなかった。
走った直後のはずなのに、彼女だけ時間の流れが違う。
他の娘たちが泥まみれで肩で息をする横で、彼女だけが公園へ散歩にでも来たかのように涼しい顔をしている。
「……ねえ、トレーナーさん。次はもっと、違う景色を見せてくれる?」
真っ直ぐな、あまりに無垢な問いかけ。
そこに勝利の重みなど微塵もない。ただ「楽しかった、次は?」とねだる子供の顔だ。
俺の目には、彼女の身体に宿る無限の可能性が、雨の中でも色鮮やかに見えていた。
……けれど、俺はすぐに頷くことはできなかった。
この「ガラス細工」のような才能を引き受けるかどうか――黒田トレーナーへの返答は、まだ俺のポケットの中で重く沈んだままだ。
「……まだ、分からない。俺が君のトレーナーになるかどうか、決めるのはこれからだ」
俺がそう告げると、グリーンは不思議そうに小首を傾げ、それから「ふーん」とだけ言って笑った。
「変なの。あんなにアタシの走りを、熱い目で見てたのに」
◆揺れる決断
隣では由衣さんが、タオルを差し出しながら俺たちの様子を静かに見守っている。
「……叔父は、不器用な人ですから。自分で育てるには『型』が合わないと分かっていて、でも手放すのが惜しいほど愛してもいました」
由衣さんは、雨の中を笑って走るグリーンを見つめ、静かに言った。
「だから、あなたに託したんですよ。ここなら、彼女を『壊さず』に済むと信じて」
彼女の言葉が、俺の胸に落ちる。
「……あすかさん」
背後から、ローリンが不安げな声を漏らす。タイフウは黙って、雨に煙るターフを睨みつけていた。
走る喜びを全身で体現したグリーン。その衝撃的な九バ身の独走は、俺たちのチームに強烈な光をもたらした。
けれど、それは同時に、ようやく整ったチームの均衡に、またひとつ波紋が落ちたことを意味していた。
雨の福島。
降りしきる音の中で、俺は自分の中にある目ともう一度向き合う。
黒田トレーナーの不器用な想いと、この底知れない才能を、俺は背負えるのか。
俺が下すべき決断の重みが、じわりと肩にのしかかっていた。