栗東に戻った翌朝。俺は黒田トレーナーのトレーナー室を訪ねていた。
重厚な木の扉の向こう、相変わらず隙のない佇まいで書類に目を通していた黒田トレーナーが、俺の気配に顔を上げる。
「……福島での走りは見た。どうだった、神楽坂君。君の目には何が映った」
試すような、けれどどこか祈るような声。
俺は一呼吸置き、ポケットの中で握りしめていた自分の決意を言葉にした。
「……彼女を、俺のチームに下さい。キョウエイグリーンの『新しい景色を見たい』という想い、俺が責任を持って形にします」
黒田トレーナーの口元が、わずかに、本当にわずかに緩んだように見えた。
「そうか。……なら、これからは君のウマ娘だ。由衣もそのまま君のサポートに付けよう。あいつはグリーンの扱いにも慣れている。……頼んだぞ」
差し出された無骨な手を握り返す。
分厚く、硬い掌。
それは、一人の少女の人生と、チームの新しい未来を託された瞬間だった。
そして、俺のチームには新しい賑わいが加わった。
自由を愛するキョウエイグリーンと、フランクな笑顔でテキパキと仕事をこなす補助スタッフ・黒田由衣さん。
由衣さんは来るなり、散らかり放題だった俺のデスクを黙って片づけた。
付箋とクリップが小気味よく動き、資料が「探さなくても手に取れる」形に並び替わっていく。
――それだけで、俺の頭の中の霧も薄くなった。
おかげで俺は、迷うことなく次の方針を定めることができた。
「……さて。全員揃ったところで、これからの予定を伝えるぞ」
俺がホワイトボードに三枚の出走表を貼り出すと、少女たちの視線が一点に集まった。
冷たい麦茶のグラスの氷が、カランと涼やかな音を立てた。
◆旋風、砂塵を裂く1400m
「まずはタイフウ。来週、7月4週の中京だ。『東海ステークス』に向かう」
「……東海ステークス? 1400か。前走よりハロン一本伸びるだけだろ。あたしに負ける要素があると思ってんのかよ、あすかさん」
タイフウが不敵に口角を上げる。松風月ステークスの1200mで見せたあの粘り。
俺の目には、延長は枷じゃない。——もう一段、風を起こすための“間”に見えた。
「中京の直線は阪神よりも短い。だが、真夏の湿った砂は想像以上に脚を削るぞ。……お前の『旋風』で、その重苦しい空気を全部引き裂いてこい」
◆真珠、伝統の重みに挑む
「次にローリン。8月3週の中京、『中京記念』だ」
その言葉に、ローリンが息を呑んだ。「記念」と名のつく伝統の重賞。相手は格上――年季の入ったシニアたちだ。
「……私、重賞……シニアクラスの人たちと……」
「白百合で見せたあの差し返しがあれば戦える。それに、クラシッククラスの斤量が味方する。軽い君なら、夏の中京も軽やかに舞えるはずだ」
俺の言葉に、ローリンは少しだけ顔を上げる。
「……由衣さん、ローリンの体調管理を重点的に頼めるか? この暑さだ、繊細な彼女には由衣さんの気配りが必要だ」
「任せてください。暑さで崩れないよう、こちらでしっかり段取りします」
由衣さんの落ち着いた言葉に、ローリンは不安を希望に変え、小さく、けれど確かに頷いた。
◆新緑の風、未知の直線へ
「そしてグリーン。8月4週、新潟だ。『新潟ジュニアステークス』で重賞に挑戦する」
「……ニイガタ? どんなところ?」
グリーンが、無邪気に首を傾げる。
「日本で一番長い直線がある場所だ。コーナーなんて気にしなくていい。……あそこなら、どこまでも、好きなだけ加速し続けていいんだ」
「……ほんと? 止まらなくていいの?」
グリーンの瞳に、新緑のような鮮やかな光が宿る。
「ああ。直線の端が逃げていく。お前が追えば追うほど、景色が生まれていく場所だ」
「……いい。アタシ、その景色……見たい!」
◆熱い風の始まり
「本当はこの夏の間は避暑地で身体を休めるのも良いのかもしれない。でも、この夏、俺たちはこの三つの勝利を獲りに行く。……ついてこれるか?」
俺の問いに、タイフウは不敵に笑い、ローリンは静かに拳を握り、グリーンは喜びを爆発させるように跳ねた。
真珠と、旋風と、新緑の風。
三つの異なる輝きが、俺の横で熱を帯びている。
1971年、夏。
由衣さんの淹れてくれた麦茶を飲み干す。
喉を冷やしたぶんだけ、胸の奥の熱がはっきりした。
俺たちは焦熱のターフへ――足を踏み出す。