1971年7月4週。真夏の湿気が、空気を重くする中京だった。
空は厚い雲に覆われ、まとわりつくような風が吹き抜けている。
キョウエイグリーンの衝撃的な「9バ身差」デビューからわずか1週間。先輩としての意地を懸け、オーナーズタイフウが真夏のダート1400m、重賞の舞台に立つ。
中京レース場、東海ステークス。
由衣さんが用意してくれた氷嚢を首筋に押し当てながら、俺はパドックの入り口で、かつてないほど昂ぶっているタイフウを呼び止めた。
「タイフウ、落ち着け。……先頭に立つなとは言わない。ただ、不必要に飛ばす必要はないんだ」
俺の言葉に、タイフウは鼻を鳴らし、不敵な笑みを浮かべた。
その瞳の奥には、先週福島の雨の中で独走を見せたグリーンの残像が、確かな火種となって燃えている。
「……ハッ。分かってるよ、あすかさん。前走の感覚だろ? 周りの雑音(ノイズ)を聞いて、あたしのビートで塗り潰せばいいんだ」
「そうだ。……信じてるぞ、お前の『しなやかさ』を」
俺が彼女の肩を叩くと、タイフウは一瞬だけ力強く頷き、曇天の下、中京の砂舞台へと足を踏み出していった。
◆東海ステークス(GⅢ・中京ダ1400m)
ゲートが跳ね上がった瞬間、場内がどよめきに包まれた。
15番枠、大外からオーナーズタイフウが猛然とダッシュを仕掛けたのだ。
内から先頭を伺おうとするダイナギニーら他陣営を、文字通り力でねじ伏せるような加速。
強引に、けれど驚異的な柔軟性で砂を捉え、彼女はあっという間にハナを奪い取った。
湿気を含んで、固く締まった砂。
本来なら脚への反動が強くなるその路面を、彼女はドラムを叩くように激しく蹴り上げ、散弾のような砂礫を後方へ弾き飛ばしていく。
それは逃げというより、後続への「砲撃」に近い光景だった。
(……飛ばしすぎだ、タイフウ!)
俺は手に汗を握り、モニターを凝視した。
俺の目には、筋肉が悲鳴を上げる寸前の回転数が見える。
グリーンの「9バ身」が脳裏にあるのか。あいつが距離(バ身)で魅せたなら、あたしは速さ(タイム)で黙らせる――そんな怒りにも似た気迫。
――それでも、激しいリズムの中、呼吸の芯だけは太いベースラインのように通っていた。
最後のコーナー。
後続が差を詰めようと一斉に動き出す。普通ならここが逃げウマ娘の限界点だ。
しかし、タイフウはそこからさらに、もう一段階上の「旋風」を巻き起こした。
「……あいつ、まだボリュームを上げる気か……っ!」
俺の咆哮と重なるように、タイフウが直線で再加速する。
追撃するダイナギニーを突き放し、バテるどころか地面を抉るような力強いキックで、彼女は独走態勢に入った。
ゴール板を通過した瞬間、掲示板に刻まれたタイムを見て、実況の声が裏返った。
「1分23秒5! レコードだ! オーナーズタイフウ、コースレコードを塗り替えたぁ!」
検量室前。戻ってきたタイフウは、肩で激しく息をしながらも、泥だらけの顔で最高の笑みを浮かべていた。
「……ハァ、ハァ……どうだよ、あすかさん。……アタマの差で勝つなんて、あたしの柄じゃねえんだよ」
「……ああ。恐れ入ったよ。文句なしの、最高のレコード勝ちだ」
俺がタオルを差し出すと、タイフウはそれを受け取り、由衣さんが差し出したスポーツドリンクを一気に飲み干した。
「神楽坂トレーナー! タイフウちゃん、すごいです! これでチームにまた一つ、最高の勢いがつきましたね!」
由衣さんの興奮した声が、真夏の重苦しい空気を明るく塗り替えていく。
一度は地方で厄介者とされた旋風が、中央の重賞でコースレコードを叩き出した。
この勝利は、俺たちのチームがもはや『訳あり』の寄せ集めではないことを、栗東校に知らしめる宣戦布告となった。
だが、俺たちはまだ立ち止まらない。
次は8月3週、ローリンの中京記念。
そして、この勝利の熱も冷めやらぬ帰りの車中で、由衣さんが意味ありげな笑顔で俺に切り出した。
「神楽坂トレーナー。栗東に戻ったら、少しお時間をいただけますか? 私たち、そろそろ『アレ』を決めるべき時期だと思うんです」
「……アレ?」
「はい。バラバラだった私たちが、一つの旗の下に集まるための……『チーム名』ですよ」
彼女のその提案は、俺たちの呼吸に、ようやく“名前”を与える合図だった。