東海ステークスのレコード勝利からひと月――8月3週。
チーム・ルミナスの拠点であるトレーナー室のデスクで、俺は一枚の通知書を前に言葉を失っていた。
「……中京記念、除外?」
横から覗き込んだ由衣さんが、痛ましそうに眉を下げた。
「はい……。ローリンちゃん、白百合ステークスを勝ってはいますけど、今回はシニアクラスの強豪が殺到してしまって……。ボーダーラインに、あと数十万円――それだけ、賞金が足りなかったようです」
俺の指が、通知書の端をくしゃりと歪めた。
俺の目には、今のローリンの仕上がりが完璧に近いことが見えていた。
筋肉の張り、呼吸の通り、目の澄み方。どれをとっても「勝てる」状態だ。
だからこそ、その力を発揮する舞台すら用意してやれなかった自分の、マネジメントの甘さが許せなかった。
ふと視線を上げると、トレーナー室の入り口で、ローリンが立ち尽くしていた。
真珠色の髪が、心なしか光を失って垂れている。
「……あすかさん。私、また……置いて、いかれて……」
「違う! 謝るな、ローリン」
俺は椅子を蹴って立ち上がり、彼女の肩を掴んだ。
真夏の昼下がりだというのに、彼女の身体は、レースに出られない悔しさと不安で冷え切っていた。
「お前が悪いんじゃない。賞金を読みきれなかった俺のミスだ。……ごめん。本当に、すまない」
◆「真珠」を走らせるための針の穴
落ち着きを取り戻した俺たちは、由衣さんが広げた番組表を囲んでいた。
改めて突きつけられたのは、オペラローリンというウマ娘を走らせるための「条件の狭さ」だった。
彼女が最も輝ける絶対領域。それは2000m前後の中距離。ここを外すとパフォーマンスの維持が難しくなる。
だが、今の賞金で確実に出走でき、かつ関西圏で行われる手頃な中距離戦は驚くほど少ない。
「厳しいですね……。京都新聞杯や神戸新聞杯はまだ先ですし」
由衣さんの指差す先には、空白が目立つ。
予定表の空白が、そのままローリンの呼吸の途切れみたいに見えた。
このまま秋まで待てば、タイフウやグリーンの快進撃に取り残される。その焦りが、ローリンの心を蝕んでしまうことは明白だった。
「……あすかさん。私、マイルでも……走れます」
ローリンが、絞り出すように言った。
「距離が短くても、頑張ります。どこでもいい……走らせてもらえるなら。ここで賞金を積まないと、また皆さんに置いていかれちゃうから」
健気な言葉が、胸に刺さる。
俺の目には、彼女が2000mで見せるゆったりとした流麗なストライドが焼き付いている。
マイルの忙しい流れは、彼女の本質ではない。息を置く場所がない。彼女の走りを、急かしてしまう距離だ。
けれど、今は「居場所」を確保するための実績が必要だった。
「……よし。ローリン、一つだけ、お前にとっての『試練』になる舞台がある」
俺が指し示したのは、9月4週、阪神レース場のオープン特別だった。
「『ポートアイランドステークス』。マイル……芝1600メートルだ」
その名前に、ローリンが顔を上げる。
「距離は短いが、ここならお前の賞金でも確実に出走できる。阪神の坂だって、あの山道の“登り”に比べればきっと大丈夫だ」
俺の言葉に、ローリンは瞳に力を込めた。
その瞬間、俺の“目”は、冷えていた彼女の芯に、再び小さな灯火がともるのを捉えた。
「分かりました。……チーム・ルミナスの名前に恥じない走り、してみせます」
その時、荷物をまとめたキョウエイグリーンが、ローリンの背中をバンと叩いた。
「しんみりしてちゃダメだよ、ローリン先輩! 先輩が休んでる間、まずは来週のアタシが、新潟の『長い直線』でド派手なニュース届けちゃうんだから!」
「……グリーンちゃん」
「だから、笑って待っててね! 先輩の出番まで、アタシとタイフウ先輩が、ルミナスの名前をターフの上でピカピカにして待ってる!」
「……ふふ。ありがとう、グリーンちゃん」
新緑の風が、停滞した空気を吹き飛ばす。
ローリンの頬に、ようやく微かな赤みが戻った。
一度は足枷に阻まれた真珠。
けれど、その輝きを信じる俺と由衣さん、そして本人の執念が、逆転のプログラムを導き出した。
9月4週、阪神。
マイルの速い鼓動を受け止めて、彼女はもう一度――ゲートへ向かう。