8月4週、新潟レース場。
日本一長い直線を持つこの舞台で、チーム・ルミナスの新星、キョウエイグリーンが重賞初挑戦の日を迎えていた。
管理室のモニターと出走表を交互に睨みながら、俺は拭いきれない嫌な予感に眉をひそめていた。
「……神楽坂トレーナー、顔が怖いですよ?」
隣で由衣さんが、手元の専門紙を広げながら心配そうに覗き込む。
「印、割れてますね。……逃げ宣言が4人。どの陣営も『ハナを譲る気はない』というコメントばかりです」
「ああ。新潟の長い直線でこのメンツがやり合えば、ハイペースで前が総崩れになる。……そうなれば、後ろで笑うのは差しウマ娘たちだ」
俺の目には、パドックの娘たちが放つ「一番前」への執着が、バチバチとした火花のように見えていた。
「グリーン。……今日は無理に先頭に立たなくていい。バ群の中でじっと脚を溜めて、最後に勝負するっていうのはどうだ?」
俺の提案に、グリーンはポカンと口を開け、それからケラケラと笑った。
「えー、窮屈そう。アタシ、やっぱり一番前で風を感じたいな! ……まあ、なんとかなるっしょ。トレーナーさん、そんなに心配しなくて大丈夫だって!」
そう言って、彼女は軽い足取りでターフへと向かっていった。
5番人気という低評価。自由奔放。けれど、その背中には「理屈じゃない確信」が満ちていた。
◆新潟ジュニアステークス(GⅢ・芝1600m)
ゲートが跳ね上がった瞬間、俺の予想通り激しい火花が散った。
1番人気のアグネスクロウが猛然とダッシュを仕掛け、グリーンもそれに呼応するように加速する。
「……言わんこっちゃない。あんなに競り合ったら……っ!」
俺は思わず頭を抱えた。
外からも二人が主張し、内の一人もハナを伺う。だが――二の脚が違った。
主導権争いは結局、アグネスクロウとグリーンの二人に絞られていく。
このままハイペースで飛ばせば、共倒れは免れない。
だが、事態は意外な方向へ動いた。
鼻の差で先頭を奪ったアグネスクロウが、コーナーに入ると同時にスッとペースを落としたのだ。
ハナを奪ったのは、飛ばすためじゃない。“抑える権利”を取るためだ。
「……スローペース? 先頭を取ってから、後ろを支配にかかったのか」
アグネスクロウが作り出した絶妙な溜め。
グリーンは、そのすぐ後ろ――2番手の位置に収まっていた。
いつもの彼女なら、我慢できずに無理やり抜きに行こうとするところだ。
けれど、モニターの中の彼女は、不思議そうな顔で前の背中を見つめ、驚くほど素直に追従していた。
(……音が、消えた?)
前のウマ娘の背中に隠れた瞬間、叩きつけてきていた風の音が、フツリと止む。
それが彼女にとって、新しい「遊び」の発見だった。
運命の、長い直線。
残り600メートル。脚を溜めていたグリーンが、満を持して外へ持ち出し加速する。
アグネスクロウの背中の影から外れた瞬間、再び轟音が彼女を包んだ。
「行け、グリーン!」
彼女の内に秘めた勝負根性が火を噴き、アグネスクロウを並ぶ間もなく抜き去った。
そのまま突き抜けるか――と思った瞬間、大外から一陣の閃光が走った。
「外からスガノホマレ! 凄いキレ味だ!」
スローペースで足を溜めていたのは、後続も同じだった。
2番人気のスガノホマレが、溜め込んだ脚を一気に解放し、飲み込んでいく。
グリーンも食い下がるが、トップスピードの差はいかんともしがたい。
一歩及ばず、グリーンは2着でゴール板を駆け抜けた。
659メートル。果てしない直線が——……長い。あまりにも長すぎる。
普通のコースなら、グリーンの押し切り勝ちだったはずだ。
だが、この新潟の果てしない直線が、スガノホマレという追い込みウマ娘に、最高速に達するための十分すぎる滑走路を与えてしまった。
検量室前。
戻ってきたグリーンは、負けた悔しさよりも、何か新しい発見をしたようなキラキラとした目で俺を見た。
「……トレーナーさん! 一番前じゃなくても、あんな走り方があるんだね! 前の娘が壁になって、風がフワッて消えるの。でね、横に出た瞬間にドンッ! って背中を押されるみたいに風が来るんだよ。あれ、ジェットコースターみたいで面白かった!」
俺のヒヤヒヤをよそに、彼女はまた一つ、走ることの楽しさを学んだようだった。
風を避けること。我慢すること。
それを教え込むには何ヶ月もかかるはずの技術を、彼女はたった一戦の「遊び」の中で体得してしまった。
「……ああ。今回は展開と直線の長さにやられたが、お前が『我慢』を覚えたのは大きな収穫だ。次は、もっと上手くやれるぞ」
勝利こそ逃したものの、5番人気という低評価を覆しての2着。
由衣さんも「これでまたチームに勢いが出ますね!」と嬉しそうに微笑んでいる。
グリーンの可能性が、また一つ広がった。
そして、この「風を避けて、最後に弾ける」という戦い方の発見は、一ヶ月後の阪神・マイル戦で戦うローリンにとっても、大きなヒントとなるはずだった。