9月1週、阪神レース場。小雨が降り続き、ダートは湿り気を含んで稍重まで沈んでいた。
オープン特別、エニフステークス。
パドック脇の控室で、俺は出走直前のオーナーズタイフウと向き合う。
「……」
俺は黙って彼女の状態を確認する。
斤量、59キロ。
クラシック級が背負うには、あまりに過酷な数字だ。俺の「目」には、その数字が彼女の背中にのしかかる、巨大な鉛の塊のように見えていた。
そんな俺の沈黙に、タイフウが怪訝そうに眉を寄せた。
「……おい、あすかさん。今日は何も言わねえのか? どこで仕掛けろとか、誰をマークしろとか……いつもみたいにごちゃごちゃとよ」
不敵に笑いながらも、どこか手持ち無沙汰そうな彼女に、俺は静かに言葉を返した。
「小細工は必要ない。……今日の敵は、ライバルじゃない。その『59キロ』だけだ」
「……あ?」
「リズムを崩すな。重さに逆らおうとして力むと、スタミナを持っていかれる。……お前の『旋風』で、その重りごと全部吹き飛ばしてこい」
俺の言葉に、タイフウは一瞬だけ目を見開き、それからニヤリと口角を吊り上げた。
「ケッ、言うじゃねえか。……重りごと吹き飛ばす? 上等だ。あたしの足音(ビート)で、コースごと揺らしてやるよ」
◆エニフステークス(OP・阪神ダ1400m)
レースは文字通り、彼女の独壇場だった。
稍重のバ場を苦にせず、タイフウはスタートから好位置を確保する。
59キロという重石は、彼女の鋭さを奪うどころか、その走りを「暴力的な質量」へと変えていた。
直線。
軽い斤量のセイウンヴィレッジが追いすがるが、タイフウの足音は重く、激しく、他を寄せ付けない。
風というより、圧だ。
湿った空気ごと押し潰すような突進。彼女の周囲だけ気圧が変わったかのように、道が開けていく。
彼女は1バ身1/4差をつけて、悠々とゴール板を駆け抜けた。
1分25秒7。
稍重のバ場でこの時計は、彼女の力が抜けていることの充分すぎる証明だった。
これで1200mの松風月S、1400mの東海Sに続き、怒涛の三連勝。
「ハッ……ハァ……! 見たか、あすかさん!」
検量室に戻ってきたタイフウは、さすがに肩で息をしていたが、その瞳はギラギラと輝いていた。
「59キロ……関係ねえな! あたしの前じゃ、全部小石みたいなもんだ!」
泥だらけの顔で会心の笑みを浮かべ、由衣さんとハイタッチを交わす。
チーム・ルミナスの「旋風」は、今や誰もが認める砂の主役へと登り詰めようとしていた。
◆飛鳥の苦悩、2000メートルの壁
大喜びするタイフウと、それを祝福する由衣さんの姿を見ながら、俺は一人、手元のストップウォッチを見つめて立ち尽くしていた。
(三連勝……。強い。強すぎる)
だが、俺の目は、歓喜の裏で別のものを見ていた。
ゴール板を過ぎた、その直後だ。
タイフウの身体から発せられていた赤い熱が――すっと、色を変えたのだ。
それは燃え尽きたんじゃない。
「もう飽きた」と言うみたいに、興奮のスイッチが切り替わった。
(……走れる。距離は、もっと先まで持つ)
俺の目は、彼女の底知れないポテンシャルを感じ取っている。2000メートルはおろか、それ以上の距離でも走り切るだけの体力はある。
けれど、タイフウがいちばん笑うのは、短い距離で“全部を壊す”走りをした時だ。
次に控えているのは、10月1週。
ダート三冠の最終舞台、『ジャパンダートクラシック』。
大井の砂を舞台にした2000メートル。
あの距離で求められるのは、一瞬の爆発力じゃない。ペース配分と、我慢の削り合いだ。
距離が伸びた分だけ、計算が増える。
そのぶん、彼女の刃は鈍る。
(彼女に“我慢の勝ち方”をさせるのか。それとも、“旋風のまま”生きさせるのか)
「神楽坂トレーナー? どうしたんですか、難しい顔をして。せっかくの三連勝ですよ!」
由衣さんの明るい声に、俺はストップウォッチをポケットに隠し、無理に笑みを作った。
「……ああ、そうですね。凄い走りでした」
真珠色のローリンがマイルという「短すぎる」試練に挑もうとする中で、タイフウは2000メートルという「長すぎる」壁の前に立っていた。
俺が下す決断が、彼女の光をさらに輝かせるのか、それとも失速させてしまうのか。 秋の気配が忍び寄る阪神の空の下、俺の心には、勝利の喜びを塗りつぶすほどの、重い雨雲が広がっていた。