ウマ娘競バ史   作:geko

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第26話:揺れる羅針盤 ※エニフステークス

 9月1週、阪神レース場。小雨が降り続き、ダートは湿り気を含んで稍重まで沈んでいた。

 オープン特別、エニフステークス。

 パドック脇の控室で、俺は出走直前のオーナーズタイフウと向き合う。

 

「……」

 

 俺は黙って彼女の状態を確認する。

 斤量、59キロ。

 クラシック級が背負うには、あまりに過酷な数字だ。俺の「目」には、その数字が彼女の背中にのしかかる、巨大な鉛の塊のように見えていた。

 

 そんな俺の沈黙に、タイフウが怪訝そうに眉を寄せた。

 

「……おい、あすかさん。今日は何も言わねえのか? どこで仕掛けろとか、誰をマークしろとか……いつもみたいにごちゃごちゃとよ」

 

 不敵に笑いながらも、どこか手持ち無沙汰そうな彼女に、俺は静かに言葉を返した。

 

「小細工は必要ない。……今日の敵は、ライバルじゃない。その『59キロ』だけだ」

 

「……あ?」

 

「リズムを崩すな。重さに逆らおうとして力むと、スタミナを持っていかれる。……お前の『旋風』で、その重りごと全部吹き飛ばしてこい」

 

 俺の言葉に、タイフウは一瞬だけ目を見開き、それからニヤリと口角を吊り上げた。

 

「ケッ、言うじゃねえか。……重りごと吹き飛ばす? 上等だ。あたしの足音(ビート)で、コースごと揺らしてやるよ」

 

◆エニフステークス(OP・阪神ダ1400m)

 

 レースは文字通り、彼女の独壇場だった。

 稍重のバ場を苦にせず、タイフウはスタートから好位置を確保する。

 59キロという重石は、彼女の鋭さを奪うどころか、その走りを「暴力的な質量」へと変えていた。

 

 直線。

 軽い斤量のセイウンヴィレッジが追いすがるが、タイフウの足音は重く、激しく、他を寄せ付けない。

 風というより、圧だ。

 湿った空気ごと押し潰すような突進。彼女の周囲だけ気圧が変わったかのように、道が開けていく。

 彼女は1バ身1/4差をつけて、悠々とゴール板を駆け抜けた。

 

 1分25秒7。

 稍重のバ場でこの時計は、彼女の力が抜けていることの充分すぎる証明だった。

 これで1200mの松風月S、1400mの東海Sに続き、怒涛の三連勝。

 

「ハッ……ハァ……! 見たか、あすかさん!」

 

 検量室に戻ってきたタイフウは、さすがに肩で息をしていたが、その瞳はギラギラと輝いていた。

 

「59キロ……関係ねえな! あたしの前じゃ、全部小石みたいなもんだ!」

 

 泥だらけの顔で会心の笑みを浮かべ、由衣さんとハイタッチを交わす。

 チーム・ルミナスの「旋風」は、今や誰もが認める砂の主役へと登り詰めようとしていた。

 

◆飛鳥の苦悩、2000メートルの壁

 

 大喜びするタイフウと、それを祝福する由衣さんの姿を見ながら、俺は一人、手元のストップウォッチを見つめて立ち尽くしていた。

 

(三連勝……。強い。強すぎる)

 

 だが、俺の目は、歓喜の裏で別のものを見ていた。

 ゴール板を過ぎた、その直後だ。

 タイフウの身体から発せられていた赤い熱が――すっと、色を変えたのだ。

 

 それは燃え尽きたんじゃない。

 「もう飽きた」と言うみたいに、興奮のスイッチが切り替わった。

 

(……走れる。距離は、もっと先まで持つ)

 

 俺の目は、彼女の底知れないポテンシャルを感じ取っている。2000メートルはおろか、それ以上の距離でも走り切るだけの体力はある。

 けれど、タイフウがいちばん笑うのは、短い距離で“全部を壊す”走りをした時だ。

 

 次に控えているのは、10月1週。

 ダート三冠の最終舞台、『ジャパンダートクラシック』。

 大井の砂を舞台にした2000メートル。

 あの距離で求められるのは、一瞬の爆発力じゃない。ペース配分と、我慢の削り合いだ。

 

 距離が伸びた分だけ、計算が増える。

 そのぶん、彼女の刃は鈍る。

 

(彼女に“我慢の勝ち方”をさせるのか。それとも、“旋風のまま”生きさせるのか)

 

「神楽坂トレーナー? どうしたんですか、難しい顔をして。せっかくの三連勝ですよ!」

 

 由衣さんの明るい声に、俺はストップウォッチをポケットに隠し、無理に笑みを作った。

 

「……ああ、そうですね。凄い走りでした」

 

 真珠色のローリンがマイルという「短すぎる」試練に挑もうとする中で、タイフウは2000メートルという「長すぎる」壁の前に立っていた。

 俺が下す決断が、彼女の光をさらに輝かせるのか、それとも失速させてしまうのか。  秋の気配が忍び寄る阪神の空の下、俺の心には、勝利の喜びを塗りつぶすほどの、重い雨雲が広がっていた。

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