9月3週、阪神レース場。
秋の爽やかな風が吹くターフの上で、チーム・ルミナスの末っ子、キョウエイグリーンが新たな試練に挑もうとしていた。
オープン特別、野路菊ステークス。芝1800メートル。
「1800か……。グリーンちゃん、大丈夫かな。あの子の集中力、今はマイルくらいが境目に見えるんですけど」
管理室で出走表をチェックしながら、由衣さんが少し不安げに呟く。
俺も同じ懸念を抱いていた。俺の目が捉える彼女の輝きは、爆発的な瞬発力に特化している。
けれど、この先を見据えるなら、ここで一度距離を“伸ばす”価値がある。今のうちに、彼女の地図を広げておきたい。
「……ああ。だが、前走の新潟で彼女は『風除け』を覚えた。あの経験があれば、1800でも息を入れられるはずだ」
パドックに向かう直前、俺はグリーンに短い言葉を送った。
「グリーン、今日は自分のリズムでいい。……前回の新潟で見た“風が消える景色”、今度は先頭で作れるか?」
「んー? ……まあ、任せてよ。アタシ、なんか面白そうなこと思いついたから!」
不敵に笑うグリーンの瞳には、もはやただ飛ばすだけの危うさはなかった。
悪戯を思いついた子供のような、無邪気で残酷な光が宿っていた。
◆野路菊ステークス(OP・阪神芝1800m)
ゲートが開き、グリーンはいつものように鮮やかなダッシュで先頭に立った。
だが、そこからの走りが、これまでとは決定的に違っていた。
「……落としたな」
俺はモニターを凝視しながら呟いた。
先頭に立ち、1コーナーを回った瞬間――彼女は、わざと“息を入れた”。しかも、いやらしいほど上手く。
グッと速度が緩む。
その瞬間、背後で小さなブレーキ音みたいな足音が、後ろへ後ろへと伝染した。
行き場を失った後続が、団子状になってガチャガチャと乱れる。
1番人気のインターブレインも、想定外の減速にリズムを狂わされ、露骨に耳を後ろへ倒して苛立っている。
その混乱を背中で感じながら、グリーンは楽しげに耳を揺らしていた。
前走でアグネスクロウにやられた「風の壁」。
それを、彼女は自らが「蓋」になることで再現し、後続を支配していた。
第4コーナー。
インターブレインが、しびれを切らしたように外から並びかけてくる。
「今だ、グリーン! おふざけは終わりだ!」
俺の咆哮に呼応するように、グリーンの脚が回転を上げた。
十分に温存されていたエネルギーが、阪神の直線で一気に爆発する。
リズムを崩されて消耗したインターブレインを尻目に、彼女は再加速。
1バ身3/4。決定的な差をつけて、彼女は悠々とゴール板を駆け抜けた。
◆「支配する逃げ」の誕生
1分51秒5。
速いんじゃない。余裕がある。
掲示板に刻まれたタイム以上に、その勝ちっぷりは俺たちに大きな希望を与えた。
「……やった! 1800m、逃げ切り勝ちです! 凄いですよグリーンちゃん、あんな器用なことができたなんて!」
由衣さんが歓喜の声を上げる。
検量室前。少しだけ肩を揺らして息をつくグリーンが、誇らしげに俺の元へ歩み寄ってきた。
「……トレーナーさん、見た? アタシがゆっくり走ったら、後ろのみんなも困ってゆっくりになっちゃうの! でね、アタシが『行くよ!』って動いたら、誰も、反応できないの。あれ、王様みたいで超面白かった!」
「……ああ。完璧だったよ。お前、想像以上に意地悪で……賢いな」
俺が彼女の汗を拭ってやると、グリーンは最高の褒め言葉を聞いたように鼻を鳴らした。
ただのスピード狂ではない。自分の「速さ」を脅しに使って、他人のリズムを壊す逃げ。
この勝利で、彼女はこの先の大きな舞台への切符を確実に手にしただけでなく、俺にマイル以上の可能性という嬉しい悩みまで届けてくれた。
「……さあ、これでチームの勢いは最高潮だ。……次は、ローリン。お前の番だぞ」
グリーンの快進撃を背に、俺は翌週に控えたポートアイランドステークス、そして「不退転の真珠」への最終準備に入った。