9月4週、阪神レース場。
秋の爽やかな陽光がターフを照らす中、チーム・ルミナスの看板娘、オペラローリンは運命の一戦を迎えていた。
オープン特別、ポートアイランドステークス。
「……また、大外か」
モニターに映し出された枠順を見つめ、俺は思わず声を詰まらせた。
8枠15番。
あの雨の皐月賞。彼女が揉まれて沈んだのと、同じ大外の枠。
「神楽坂トレーナー……」
隣に立つ由衣さんも、俺の脳裏をよぎった懸念を察したのだろう。
選択肢は二つ。
最短距離を求めてバ群の激流に飛び込み、また揉まれるリスクを負うか。
それとも、外を回って、自分の走りを守るか。
マイルという息つく暇もない展開の中で、その判断の遅れは致命傷になる。
パドックの入り口。俺の強張る視線に気づいたのか、ローリンがふっと足を止め、こちらを振り返った。
「大丈夫ですよ、あすかさん。……『二択』ですよね?」
かつて迷い、立ち止まった彼女の顔に、曇りはなかった。選ぶことを、もう怖がっていない目。
俺は大きく頷き、彼女の背中を力強く押し出した。
「ああ。……信じてるぞ、ローリン」
◆ポートアイランドステークス(L・阪神芝1600m)
ゲートが跳ね上がった。
マイル特有の激しいポジション争いが始まる。ローリンは中団につけようと内を伺うが、場数のあるウマ娘たちが作る分厚い壁が立ち塞がる。
皐月賞なら、ここで焦って突っ込み、弾き飛ばされていただろう。
(……入れない。なら、いいです)
第4コーナー。バ群は密集したまま直線を迎える。
ローリンが選んだのは、若葉ステークスで掴んだ進路と同じ、大外を回る道だった。
だが、あの時とは決定的に違うものがあった。
「……落ち着いている。遠回りすら、自分のリズムにしている」
俺の目には、彼女が大きな弧を描いて、流れるように速度を乗せていく姿が見えていた。
内側の泥臭い喧騒を嫌い、誰もいない大外を、自分だけの「舞台」に変えている。
直線。内側で粘り込みを図る5番人気のコーヨーが、独走態勢に入ろうとする。
万事休すか――そう思った瞬間、大外から真珠色の閃光が弾けた。
「行け、ローリン――ッ!!」
俺の叫びと同時に、ローリンの末脚が爆発した。
大外を回って蓄えたエネルギーが、ソプラノの歌声のように高く、強く響き渡る。
一歩、また一歩。
粘るコーヨーを残り100メートルで捉えると、そのまま力強く突き放し、1バ身の差をつけてゴール板を駆け抜けた。
1分36秒0。
それは、彼女が“選んだ道”で勝てることの証明だった。
「……やりましたね、神楽坂トレーナー! ローリンちゃん、勝ちました!」
由衣さんと手を取り合って喜ぶ俺の元に、肩で息をしながらローリンが戻ってくる。
その顔には、誇らしげな、そしてどこか晴れやかな笑みが浮かんでいた。
「……あすかさん。私、外側からでも……ちゃんと景色が見えました」
「ああ。最高の走りだったよ。……お前の『真珠』は、どこにいても輝けるんだな」
俺が彼女の肩にタオルをかけると、ローリンは小さく、けれど確かな手応えを噛みしめるように頷いた。
これでチームの秋が、揃った。
真珠の再起、新緑の進化。
そして――。
俺はポケットの中で、次週に控えた大井行きの切符を握りしめた。
次は、あの荒ぶる旋風を、2000メートルの荒野へ解き放つ番だ。
◆真珠のわがまま
10月1週、大井での決戦を数日後に控えた栗東のトレーナー室。
窓の外では、少しずつ色づき始めた木々が秋の深まりを告げていた。
俺はローリンを一人、トレーナー室に呼び出していた。
手元にあるのは、10月の大舞台、菊花賞の要綱。
彼女がいちばん輝く距離が、そこじゃないのは分かっている。
だが、先日タイフウが叫んだ「一生に一度のクラシック」という言葉が、どうしても俺の胸に棘のように刺さっていた。
(俺が彼女の可能性を、勝手に決めつけてはいないか……?)
そんな迷いが顔に出ていたのかもしれない。
部屋に入るなり、俺の顔をじっと見つめたローリンは、俺が口を開くより先に、鈴を転がすような声で静かに告げた。
「……出ませんよ。私、あそこは行きません」
「え……?」
不意を突かれ、言葉に詰まる。ローリンは俺のデスクの向こう側にそっと座り、真珠色の髪を揺らして微笑んだ。
「分かってます。あすかさんが、私のために少しでも有利な、私が一番輝けるレースを選ぼうと、ずっと苦労してくださっていること。……あすかさんが夜遅くまでページを捲る音、私、聞いてますから」
彼女の瞳には、迷いも、タイフウのような焦燥もなかった。そこにあるのは、澄み渡った湖のような、俺への深い信頼だけだった。
それに、と彼女は小さく舌を出した。
「3000メートルなんて走ったら、疲れでお肌が荒れちゃいます。私には、あすかさんが選んでくれる『輝ける距離』がちょうどいいです」
「ローリン……」
俺の目には、彼女が誇らしげに光を纏っているのが見えた。それは、自分を理解してくれる理解者を得た、一人の女の子としての確かな輝きだった。
「……さて。そう決まれば、お話は終わりですね?」
ローリンがいたずらっぽく小首を傾げた。時計の針は、予定していた打ち合わせ時間を大幅に残している。
「あの、あすかさん。お話し合い、早く終わっちゃいましたから……少し、お時間が余っていませんか?」
「ああ、まあ、そうだな」
「私、勝ちましたよ。ポートアイランドステークス、頑張りました。……だから、ご褒美……ください」
少しだけ頬を赤らめ、上目遣いで俺を見る彼女。
いつもは控えめな「真珠」が見せた、勝利した者だけの、可愛らしい特権の行使。
「……そうだな。今日くらいは、お前のわがままを聞こうか」
俺がそう答えると、ローリンは嬉しそうに目を細めた。
嵐の前の静けさの中、真珠のような優しい時間が、そこには流れていた。