栗東駅のホームには、煤煙と冷たい湿り気が立ち込めていた。
俺とオペラローリンは、東へと向かう急行列車、その乗車口に立っていた。
学園の遠征バスの名簿に、俺たちの名前はない。
だから切符も、窓口で二枚買った。硬く、冷たい厚紙の切符。
これがなければ、俺たちはただの部外者だ。この小さな紙切れだけが、俺たちを東へと繋いでいる。
彼女は厚手のオーバーコートに身を包み、真珠色の髪を隠すように深くフードを被っている。その肩は、先ほどから微かに震え続けていた。
「……大丈夫か」
俺の問いかけに、彼女はこくりと頷いたが、顔色は雪のように白い。
栗東という箱庭から引きずり出された彼女にとって、この移動はただの旅ではない。
見知らぬ土地へ向かう不安と、負けたら終わるかもしれないという秒針が、彼女の胸の奥でけたたましく鳴っているのだろう。
車内に入ると、みかんとタバコの混じった生活の匂いが、むっと鼻をついた。
正月の名残を含んだその澱んだ空気は、彼女の鋭い感覚を容赦なく削っていく。
ボックス席に腰を下ろすと、彼女は窓の外を流れる景色を拒むように目を閉じ、俺のコートの袖をぎゅっと掴んだ。
指先が白くなるほど、強く。
「トレーナー、さん……」
震える声が、車輪の刻むガタン、ゴトンというリズムに溶けそうになる。
「……隣に、いてくれますか。私、一人だと……このままどこかへ、消えてしまいそうで」
昨日ライセンスを手にしたばかりの俺にできるのは、ただその冷たい指先に、自分の掌を重ねることだけだった。
二十歳の俺の手は、彼女の不安をすべて拭えるほど大きくはない。
それでも、俺が手を離せば、この少女の物語はここで途切れてしまう。そんな確信だけがあった。
「いるよ。中山の坂の上まで、ずっと一緒だ」
袖を掴む力が、さらに強くなる。
その指先から伝わってくるのは、死に物狂いで何かに縋ろうとする、剥き出しの生への執着だ。
◆決戦前夜、中山の静寂
中山のレース場裏手、関係者が使う簡素な宿舎の一室。
彼女は夕食にもほとんど手をつけず、窓の外に滲む街の灯りを見つめていた。
「……私、やっぱりダメかもしれません。……ここには、私の居場所なんて、どこにもないみたいで」
ぽつりと漏らした声は、夜の静寂に吸い込まれていく。
見知らぬ土地の冷たい空気。
周囲の部屋からは、他の陣営の笑い声や、誰かが体を動かす床の軋みが微かに伝わってくる。
それが彼女には、自分を締め出す壁の音に聞こえるのだろう。
「ローリン。居場所は、明日、自分で作るんだ」
俺は彼女の目線に合わせるように、床に膝をついた。
「俺の目には見えている。君の走りの『音』は、まだ死んでいない。世間の評価も、前の担当の言葉も――いまは脇に置こう。明日、坂の上で確かめる。うまくいかなかったら、その時に一緒に考え直せばいい」
「……トレーナーさんの、その言葉。信じても、いいんですか」
「ああ。……信じろ、とは言わない。けど、明日の坂の上で、答え合わせをしよう」
◆1月3週、凍てつくターフ
翌朝。中山レース場は、冬の枯れ色に染まっていた。
パドック――レース前の下見所は、観客の熱と照明で、やけに明るい。
ウマ娘たちはランウェイのような周回路を歩き、声援に手を振ったり、小さくポーズを取ったりする。
その中でローリンだけが、昨夜の憔悴が嘘みたいに研ぎ澄まされているのに、どこか居場所を測りかねた顔で歩いていた。
俺は柵越しに、彼女の姿を見つめた。
相変わらず不安げに俺を探す瞳。
だが、俺の「目」には映っていた。
さっきまで彼女を支配していた不協和音が、パドックの土を踏みしめるたびに消えていく。
身体の芯にある、極細だが、決して折れない澄んだ旋律。
――調子は、いい。あとは、心の置き所だけだ。
「……いいか、ローリン」
柵の最前列まで来た彼女に、俺は誰にも聞こえない声で、最後の指示を出す。
「今日は、逃げなくていい」
彼女の真珠色の髪が、中山の乾いた風に揺れる。
「誰かの背中の後ろなら、君の中のノイズは静かになる。最後の坂まで、そこで息を整えろ」
彼女は、一度だけ深く頷いた。
その瞳に、微かだが、確かな光が宿る。
1971年、京成杯。
新米トレーナーと、崖っぷちの少女。
俺たちの本当の走りが、今、ゲートの向こうで始まろうとしていた。