10月1週、大井レース場。
カクテル光線が砂を照らし、湿った夜風が潮の香りを運んでくる――ダート三冠最終戦、ジャパンダートクラシック。
パドックに向かう地下バ道で、俺はオーナーズタイフウの姿に息を呑んだ。
「……どうだよ、あすかさん。似合ってるか?」
彼女が不敵に笑いながら、くるりと身を翻す。
羽田盃の時は、地方からの緊急移籍で間に合わせの汎用服だった。
だが今日は違う。これが、チーム・ルミナスの「旋風」のために仕立てられた、正真正銘の勝負服だ。
夜の嵐を思わせる深い蒼(インディゴブルー)のジャケット。
その胸元や袖には、巻き上がる砂塵を模した荒々しい金の刺繍が走っている。
首には、真紅のスカーフが、風になびくように結ばれていた。
荒削りで、強気で、誰にも媚びない彼女そのもののような装いだった。
「ああ……。最高に似合ってるぞ。ようやく、お前だけの旗印を掲げられたな」
「ケッ、遅えんだよ。……見てな。この綺麗な一張羅、大井の砂で一番派手に汚してやるからよ」
彼女は真紅のスカーフを指で弾くと、大歓声が待つ夜のコースへと飛び出していった。
◆
モニターに映し出される枠順を前に、俺は何度も溜息を押し殺した。
「……これ、荒れるぞ。大荒れだ」
俺の言葉に、隣の由衣さんも固唾を呑んで画面を見つめる。
出走16人。そのうち7人が、先頭を狙う「逃げ」の脚質を持つウマ娘たちだ。
激しいポジション争い、そして逃げ同士が潰し合う消耗戦……。大井の砂の上には、残酷な結末への予兆が満ちていた。
「タイフウ、お前……」
パドックに立つ彼女の背中を、俺は遠くから見守るしかなかった。
2000mという距離。そしてこの激流の予想。
彼女の選んだ道が、どれほど険しいものかを改めて痛感していた。
◆ジャパンダートクラシック(JpnⅠ・大井ダ2000m)
ゲートが跳ね上がった瞬間、大井の夜空に火花が散った。
スタート直後から数人が横一線に並び、狂ったような先頭争いが始まる。その中には、タイフウの姿もあった。
「……飛ばしすぎだ! このペースじゃ最後まで保たない!」
叫ぶ俺の視界を、さらなる衝撃が横切った。
2番のマイネルメドウが、他の追随を許さないほどの勢いで大逃げを敢行したのだ。
視界が白む。タイフウは競り合いの渦中にいた。
しかし、次の瞬間、俺の顔から血の気が引いた。
タイフウが、ずるずると後ろへ下がっていく。
「タイフウ!? ――故障か!?」
絶叫しそうになった俺の目が、必死に彼女の動きを捉える。
脚の運び、筋肉の躍動、呼吸……。
――違う。
故障じゃない。彼女の内部で、凄まじい軋みが見えた。
「行きたい」と叫ぶ本能を、「行くな」という理性が必死に鎖で繋ぎ止めている。
彼女は、自分の意志で下げたのだ。
タイフウは、競り合いの激流から自ら身を引いた。
2000mという距離の壁。そして前方の無謀な争い。
彼女は一番前への執着を一時的に捨て、自分の体力が尽きないギリギリのペースへと、断腸の思いで自分を制御していた。
しかし、下げるということは、前の集団が蹴り上げる膨大な砂塵をまともに浴びるということだ。
バラララ、と乾いた音が響く。
散弾のような砂粒が、おろしたての蒼いジャケットを、そして彼女の顔面を容赦なく打ち据える。
先頭を走る者だけが知らなかった、後方の痛み。
プライドの高い彼女にとって、それは何よりも許しがたい屈辱のはずだった。
だが、タイフウは目を閉じない。
口の中に入り込む砂を噛み砕き、泥だらけの視界で、ただ勝機だけを睨み続けていた。
第4コーナー。
大逃げを打ったマイネルメドウや競り合っていた集団が、大井の深い砂に脚を取られて次々と失速していく。
そこへ、中団で脚を溜めていた2番人気のフジプリンスが襲いかかった。
「行け、タイフウ! 踏ん張れ!」
タイフウも外から必死に追い上げる。
本来、彼女は後ろから差すタイプではない。走り方が噛み合うかも分からない2000m、その最後の一滴まで絞り出すような直線の攻防。
フジプリンスが独走でゴールを駆け抜ける。
その4バ身、さらに3バ身半後ろ……。
タイフウは歯を食いしばり、ガス欠寸前の身体をねじ込むようにして、先行勢を飲み込んでいく。
蒼い旋風は、粘りに粘って、4着でゴール板を駆け抜けた。
勝ち負けじゃない。――「下げる」を選べたことが、彼女を次の冠へ繋いだ。
検量室前。
戻ってきたタイフウの姿は、壮絶だった。
自慢の勝負服は、元の蒼色が分からないほど大井の黒い砂でコーティングされ、真紅のスカーフだけが、血のように重く泥を吸って垂れ下がっていた。
「……ハァ、ハァ……。……約束通り、一番派手に、汚してやったぜ……」
立っているのもやっとの状態。けれど、その瞳の光は失われていなかった。
「……ああ。最高に格好良かったよ。お前のその泥だらけの姿は、どんな綺麗な服よりも輝いて視える」
俺がタオルで顔の泥を拭ってやると、彼女は俺の腕に体重を預け、満足げにニヤリと笑った。
一生に一度のクラシック。勝利には届かなかった。
だが、この泥にまみれた蒼は、今日から本当の意味で彼女の「旗印」になった。