ウマ娘競バ史   作:geko

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第30話:選んだ勇気 ※ジャパンダートクラシック

 10月1週、大井レース場。

 カクテル光線が砂を照らし、湿った夜風が潮の香りを運んでくる――ダート三冠最終戦、ジャパンダートクラシック。

 

 パドックに向かう地下バ道で、俺はオーナーズタイフウの姿に息を呑んだ。

 

「……どうだよ、あすかさん。似合ってるか?」

 

 彼女が不敵に笑いながら、くるりと身を翻す。

 羽田盃の時は、地方からの緊急移籍で間に合わせの汎用服だった。

 だが今日は違う。これが、チーム・ルミナスの「旋風」のために仕立てられた、正真正銘の勝負服だ。

 

 夜の嵐を思わせる深い蒼(インディゴブルー)のジャケット。

 その胸元や袖には、巻き上がる砂塵を模した荒々しい金の刺繍が走っている。

 首には、真紅のスカーフが、風になびくように結ばれていた。

 荒削りで、強気で、誰にも媚びない彼女そのもののような装いだった。

 

「ああ……。最高に似合ってるぞ。ようやく、お前だけの旗印を掲げられたな」

 

「ケッ、遅えんだよ。……見てな。この綺麗な一張羅、大井の砂で一番派手に汚してやるからよ」

 

 彼女は真紅のスカーフを指で弾くと、大歓声が待つ夜のコースへと飛び出していった。

 

 

 モニターに映し出される枠順を前に、俺は何度も溜息を押し殺した。

 

「……これ、荒れるぞ。大荒れだ」

 

 俺の言葉に、隣の由衣さんも固唾を呑んで画面を見つめる。

 出走16人。そのうち7人が、先頭を狙う「逃げ」の脚質を持つウマ娘たちだ。

 激しいポジション争い、そして逃げ同士が潰し合う消耗戦……。大井の砂の上には、残酷な結末への予兆が満ちていた。

 

「タイフウ、お前……」

 

 パドックに立つ彼女の背中を、俺は遠くから見守るしかなかった。

 2000mという距離。そしてこの激流の予想。

 彼女の選んだ道が、どれほど険しいものかを改めて痛感していた。

 

◆ジャパンダートクラシック(JpnⅠ・大井ダ2000m)

 

 ゲートが跳ね上がった瞬間、大井の夜空に火花が散った。

 スタート直後から数人が横一線に並び、狂ったような先頭争いが始まる。その中には、タイフウの姿もあった。

 

「……飛ばしすぎだ! このペースじゃ最後まで保たない!」

 

 叫ぶ俺の視界を、さらなる衝撃が横切った。

 2番のマイネルメドウが、他の追随を許さないほどの勢いで大逃げを敢行したのだ。

 視界が白む。タイフウは競り合いの渦中にいた。

 

 しかし、次の瞬間、俺の顔から血の気が引いた。

 タイフウが、ずるずると後ろへ下がっていく。

 

「タイフウ!? ――故障か!?」

 

 絶叫しそうになった俺の目が、必死に彼女の動きを捉える。

 脚の運び、筋肉の躍動、呼吸……。

 

 ――違う。

 故障じゃない。彼女の内部で、凄まじい軋みが見えた。

 「行きたい」と叫ぶ本能を、「行くな」という理性が必死に鎖で繋ぎ止めている。

 彼女は、自分の意志で下げたのだ。

 

 タイフウは、競り合いの激流から自ら身を引いた。

 2000mという距離の壁。そして前方の無謀な争い。

 彼女は一番前への執着を一時的に捨て、自分の体力が尽きないギリギリのペースへと、断腸の思いで自分を制御していた。

 

 しかし、下げるということは、前の集団が蹴り上げる膨大な砂塵をまともに浴びるということだ。

 バラララ、と乾いた音が響く。

 散弾のような砂粒が、おろしたての蒼いジャケットを、そして彼女の顔面を容赦なく打ち据える。

 先頭を走る者だけが知らなかった、後方の痛み。

 プライドの高い彼女にとって、それは何よりも許しがたい屈辱のはずだった。

 

 だが、タイフウは目を閉じない。

 口の中に入り込む砂を噛み砕き、泥だらけの視界で、ただ勝機だけを睨み続けていた。

 

 第4コーナー。

 大逃げを打ったマイネルメドウや競り合っていた集団が、大井の深い砂に脚を取られて次々と失速していく。

 そこへ、中団で脚を溜めていた2番人気のフジプリンスが襲いかかった。

 

「行け、タイフウ! 踏ん張れ!」

 

 タイフウも外から必死に追い上げる。

 本来、彼女は後ろから差すタイプではない。走り方が噛み合うかも分からない2000m、その最後の一滴まで絞り出すような直線の攻防。

 

 フジプリンスが独走でゴールを駆け抜ける。

 その4バ身、さらに3バ身半後ろ……。

 タイフウは歯を食いしばり、ガス欠寸前の身体をねじ込むようにして、先行勢を飲み込んでいく。

 

 蒼い旋風は、粘りに粘って、4着でゴール板を駆け抜けた。

 勝ち負けじゃない。――「下げる」を選べたことが、彼女を次の冠へ繋いだ。

 

 検量室前。

 戻ってきたタイフウの姿は、壮絶だった。

 自慢の勝負服は、元の蒼色が分からないほど大井の黒い砂でコーティングされ、真紅のスカーフだけが、血のように重く泥を吸って垂れ下がっていた。

 

「……ハァ、ハァ……。……約束通り、一番派手に、汚してやったぜ……」

 

 立っているのもやっとの状態。けれど、その瞳の光は失われていなかった。

 

「……ああ。最高に格好良かったよ。お前のその泥だらけの姿は、どんな綺麗な服よりも輝いて視える」

 

 俺がタオルで顔の泥を拭ってやると、彼女は俺の腕に体重を預け、満足げにニヤリと笑った。

 

 一生に一度のクラシック。勝利には届かなかった。

 だが、この泥にまみれた蒼は、今日から本当の意味で彼女の「旗印」になった。

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