激闘が続いた大井の喧騒から数日。
泥にまみれたタイフウのケアを由衣さんに任せ、俺はローリンと約束の場所へ向かった。
「ここは任せて、たまには息抜きしてきてください!」
そう言って背中を押してくれた由衣さんに甘え、俺たちが訪れたのは、神戸の街を少し離れた静かな砂浜だった。
秋の午後の光は、どこか優しく、それでいて切ないほどに透き通っている。
ポートアイランドステークスを勝ったオペラローリンは、私服のワンピースを潮風に揺らしながら、俺の半歩後ろを歩いている。
「……静かですね、あすかさん」
ローリンが、波打ち際を見つめて呟く。
普段、トレセンの砂を蹴る音や、レース場の地鳴りのような歓声の中に身を置いている彼女にとって、この規則正しい波の音は何よりの贅沢なのかもしれない。
「ああ。……少しは、休めているか?」
「はい。あすかさんとこうして歩いているだけで、なんだか胸の奥の澱が、真珠みたいに白く洗われていく気がします」
彼女はそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
俺の目には、彼女が纏う光が、今は水面の輝きのように穏やかに、けれど深く澄んでいるのが見えていた。
砂浜に置かれた流木に腰を下ろし、俺たちは由衣さんが持たせてくれた魔法瓶の温かい紅茶を分かち合った。
「……ご褒美、これでもう十分ですよ。あすかさんを独り占めできちゃいましたから」
「そんなことでいいのか? 甘いものとか、欲しいものがあれば何でもと言ったはずだが」
俺の言葉に、彼女は紅茶のカップを両手で包み、少しだけ視線を伏せた。
「……私、知っているんです。あすかさんが夜遅くまで、トレーナー室で番組表を捲っていたこと。みんなのために、“いちばん輝く道”を、ずっと探してくれていたこと」
彼女の声は、潮騒に紛れるほど小さく、柔らかかった。
俺が自分の目で彼女たちの可能性を必死に追いかけていることを、彼女は言葉にせずとも感じ取っていた。
「だから……私が一番嬉しいご褒美は、あすかさんが『私のトレーナー』として、笑って隣にいてくれることなんです」
ローリンはカップを置くと、砂の上で俺の方へ少しだけ体を寄せた。
真珠色の髪から、微かに潮の香りと、彼女自身の優しい匂いが伝わってくる。
「……あすかさん。……私、もう少しだけ、わがまま言ってもいいですか?」
上目遣いで俺を見つめる瞳。
それは、チーム・ルミナスの看板娘としてではなく、ただ一人の少女として、俺に向けられた確かな意志だった。
「……いいぞ。言ってみろ」
俺がそう答えると、彼女は少しだけ勇気を振り絞るように、俺のコートの袖を、細い指先でそっと掴んだ。
生地越しに伝わるその指先は、海風にさらされて、少しだけ冷たくなっていた。
「……次のレースに勝ったら、今度は……手、繋いでくれますか?」
潮騒の音が、一瞬だけ遠のいた気がした。
彼女の頬が、夕日に染まる水平線よりも赤く染まっていく。
俺は、袖を掴む彼女の冷えた指先の上に、自分の温かい手をそっと重ねた。
「……ああ。約束だ」
繋ぐのは、まだ先。今はただ、温めるだけ。
それでもローリンは、泣き出しそうなほど嬉しそうに目を細め、重ねられた俺の手の温もりを噛み締めていた。
秋の海。
二人だけの時間が、穏やかに流れていく。
この静寂の先には、再び激しい闘志が渦巻くターフが待っていることを。
俺はすっかり冷めた紅茶を飲み干し、彼女の指先の冷たさだけを、まだ手のひらに残したまま息を吐いた。