10月5週、平日。
カクテル光線に照らされた大井レース場は、地方と中央の意地がぶつかり合う熱気に包まれていた。
JBCスプリント。
泥にまみれた2000メートルの記憶を、最速の閃光で塗り替えるための戦いが始まろうとしていた。
大井の砂舞台を囲むスタンドからは、相変わらずタイフウへの野次が飛んでいた。
かつて地方で期待を裏切ったとされる彼女への、拭いきれない敵意。
「出ていったくせに」
「今さら中央ぶってんじゃねえぞ」
パドック脇の地下バ道。蒼い勝負服を纏ったタイフウは、そんな声を鼻で笑い飛ばすように、俺の顔を覗き込んできた。
「……ケッ、今日は一段と賑やかじゃねえか。なあ、あすかさん。……今日はあいつらを、あっと言わせてやってもいいんだろ?」
その瞳には、かつての焦りはない。ただ、最速を証明したいという純粋な渇望だけが宿っていた。
俺は彼女の肩に手を置き、静かに言葉を返した。
「ああ。今日は、我慢なんてしなくていい。……お前が誰よりも速いことは、俺が一番よく知ってる」
「……ハッ。分かってんじゃねえか。見てな、大井の夜を切り裂いてやるよ」
◆JBCスプリント(JpnⅠ・大井ダ1200m)
ゲートが跳ね上がった瞬間、場内は静まり返った。
1番人気のオーナーズタイフウと、2番人気のオーナーズシュンが、弾かれたように飛び出したのだ。
「譲らない! ……二人とも、一歩も譲る気がない!」
俺の呟きは、怒号のような歓声に掻き消された。二人は先頭を巡って猛然と競り合い、後続を大きく引き離していく。
1200mという短距離において、そのペースは自殺行為に近い殺人的な流れ――まさに、魂を削り合うような消耗戦だった。
第4コーナー。
普通なら、ここでどちらかが力尽きる。だが、タイフウとオーナーズシュンの火花散る競り合いは、直線を向いてもなお続いていた。
「行け、タイフウ――ッ!!」
残り200メートル。
オーナーズシュンの脚色が鈍る。誰もがタイフウも止まると思った瞬間――
その背中が、沈まない。
いや――沈ませない。
彼女のエンジンが、もう一段階唸りを上げた。
(2000メートルに比べれば――こんな痛み、一瞬だッ!)
JDCで培った、死ぬ気で粘る根性。それが今、スプリンターとしての彼女を「最後の一歩」まで支えていた。
タイフウは一気に加速した。
蒼い一張羅が夜風にたなびき、彼女は1バ身の差をつけて、誇らしげにゴール板へと飛び込んだ。
◆「野次」が「喝采」に変わる時
ゴールした瞬間、大井を支配していたのは静寂だった。
野次を飛ばしていた観衆たちは、掲示板に刻まれた1分10秒6という圧倒的なタイムを前に、ただ言葉を失い、ポカンと口を開けていた。
だが、数秒後。
どこかのオヤジが思わず漏らした「……はええ」という呟きを皮切りに、どっと爆発的な歓声が沸き起こった。
野次ではない。それは、純粋な「速さ」という暴力に屈した者たちからの、降参と称賛のどよめきだった。
「……どうだ、あすかさん。……今度は、最後まで“あたし”を見失わなかっただろ?」
戻ってきたタイフウは、荒い息を吐きながらも、泥を拭った顔で最高に不敵な笑みを浮かべていた。
その耳にはもう、罵声は届いていない。嵐のような「タイフウ」コールが、大井の夜空を震わせていた。
「ああ。……文句なしの、砂のスプリント女王だ」
俺がタオルをかけると、彼女は照れ隠しのように俺の腕を叩いた。由衣さんも目を潤ませながら、彼女の健闘を讃えている。
けれど、余韻に浸っている時間はなかった。俺はタイフウを由衣さんに託すと、大井を後にする。
「タイフウ、おめでとう。……俺は、京都へ行く。二人も、お前の勝利を待ってるからな」
「おう、行ってこい! ルミナスの勢い、そのままぶつけてこいよ!」
背中で彼女の声を聞きながら、俺は新幹線へと急いだ。
週末の京都。グリーンのファンタジーS、そしてローリンのカシオペアS。
チーム・ルミナスの“秋”を繋ぐために、俺の戦いはまだ終わらない。