12月1週、阪神レース場。
六甲おろしが冷たく吹き抜けるターフには、先月までの祝勝ムードを凍らせるような、張り詰めた緊張感が漂っていた。
チーム・ルミナスの「真珠」ことオペラローリンが挑むのは、初のシニア級との混合重賞。
若き才能の前に、経験という名の分厚い壁が立ちはだかる。
阪神レース場、第11レース。鳴尾記念。
パドックの隅で、俺は出走直前のオペラローリンと向き合っていた。
「ローリン。相手はみんな、修羅場を潜り抜けてきたベテランばかりだ。今までのような『綺麗なレース』はさせてもらえないぞ」
俺の言葉に、ローリンは真珠色の髪を揺らし、少しだけ硬い表情で頷いた。
俺の目には、彼女の中に宿る高潔な輝きは健在なものの、周囲を取り囲むシニア級たちの放つ、鉛のように重いプレッシャーが見えていた。
「……はい。でも、引きません。私たちが積み上げてきたものが、上の世代にどこまで通じるか……試してきます」
彼女は自分に言い聞かせるように呟くと、今回は念願だった内枠――3番ゲートへと向かっていった。
◆鳴尾記念(GⅢ・阪神芝1800m)
ファンファーレ。一瞬の静寂の後にゲートが跳ね上がる。
ローリンは好スタートを切り、セオリー通りに内側の経済コースを確保した。
ずっと欲しかった内枠。得意の1800メートル。
だが、それが罠だった。
「……囲まれた!?」
1コーナーを回った瞬間、俺は思わず手すりを叩いた。
外からホウウン、前にはゼンマツ。
歴戦のシニア級たちが、示し合わせたようにローリンを包囲し、壁を作ったのだ。
3連勝中の若き新星。その芽を摘むために、ベテランたちは「進路を消す」という老獪な戦術をとった。
ペースが落ちる。イライラと頭を上げるローリン。
出たくても出られない。
前走のカシオペアSと同じ距離なのに、あの時の「自由な独走」とは真逆の、息の詰まるような鳥籠の中。
得意のはずの1800メートルが、永遠のように長く感じられた。
第4コーナーを回っても、ローリンはまだバ群の中にいた。
体力は残っているのに、踏み込む場所がない。
「ローリン、こじ開けろ! お行儀よく待ってる必要はない!」
俺の叫びが届いたのか。
残り200メートル、疲弊した先行集団が一瞬だけ、ほんの僅かにバラけた。
ローリンは迷わず、その狭い隙間に身体をねじ込んだ。
優雅さなんてかなぐり捨てた、泥臭い突撃。
シニア級の身体とぶつかり合い、弾き返されそうになりながらも、彼女は意地で脚を伸ばした。
前を行くウマ娘には届かない。
それでも彼女は、最後の一歩まで諦めず、必死の形相でゴール板へとなだれ込んだ。
◆高価な授業料
結果は5着。
掲示板確保。初のシニア相手の包囲網を考えれば、大健闘と言える数字だ。
だが、検量室の前に戻ってきたローリンは、悔しさで唇を噛み締め、肩を激しく揺らしていた。
美しい真珠色の髪は乱れ、シニア級たちと競り合った際の土埃が、その白い肌を汚している。
「……あすかさん。私……自分の走りが、何もできませんでした……っ」
「……ああ。苦しかったな。これが、シニア級の洗礼だ」
俺が彼女の頭をそっと撫でると、ローリンは俺の胸に額を預けるようにして、小さく吐息を漏らした。
綺麗に勝つことだけが強さじゃない。
泥にまみれ、思い通りにいかない中で、それでも掲示板を死守したこの経験。
「よく耐えたよ。今日お前がこじ開けたあの隙間は、間違いなく来年の『春』に繋がっている」
「……はい。次は、負けません。力ずくでも、私の場所を奪い取ってみせます」
涙は見せない。
彼女の瞳には、ただ静かな闘志だけが燃えていた。
連勝は止まった。けれど、この「5着」は、彼女が少女から戦士へと変わるための、必要な痛みだったのかもしれない。
鳴尾記念の苦い経験を胸に、物語はいよいよ12月最大の激戦へ。
新緑の天才少女・キョウエイグリーンが挑む、ジュニア女王決定戦『阪神ジュベナイルフィリーズ』へと加速していく。