12月も末。ローリンとグリーンの二人が休養に入り、少しだけ静かになったトレセン学園栗東校の練習場。
雪混じりの風を切り裂くように、軽めの調整を終えたオーナーズタイフウが、立ち上る湯気と共に俺の前に立った。
「……ふぅ。訛っちゃいないな。いい調子だ」
鼻を鳴らし、満足げに笑うタイフウ。由衣さんが手際よく彼女にタオルをかけ、温かいお茶を差し出す。
休養期間中とはいえ、じっとしているのは性に合わないらしい。
俺の目には、彼女が纏う蒼い光が、冬の冷気の中でより一層鮮やかに、エンジンの火花のように弾けて見えていた。
俺が手元の調整メニュー表を片付け、一歩下がろうとした――その瞬間。
ドン、と鈍い音が響いた。
タイフウが俺の逃げ道を塞ぐように、壁に手をついたのだ。
「……あすかさん。ちょっと、聞きたいことがあるんだけどさ」
「ん? なんだ、やっぱり脚に違和感でもあったか?」
「……鈍いね。そうじゃないよ」
タイフウは少しだけ声を低くし、至近距離から俺を睨み据えた。
「あの助手が、ニヤニヤしながら教えてくれたぜ? ……夏、お嬢様を海へエスコートしたんだってな?」
「……ッ、由衣さん……余計なことを」
「へえ、図星か。……あたしもJBCスプリントで最高の仕事をしたんだ。当然、それに見合う『報酬』を請求する権利はあるよな?」
タイフウはニヤリと笑い、逃げ場のない俺の襟首を、まるで獲物を捕らえるように掴んだ。
その瞳には、一人のアスリートとしての誇りと、それ以上に一人の女の子としての、隠しきれない独占欲が渦巻いていた。
◆鉄と熱の匂い、大阪・中之島
数日後。俺たちはクリスマスのイルミネーションに彩られた、夜の大阪・中之島にいた。
ローリンが望んだ静かな海辺とは違い、タイフウが指定したのは、鉄の匂いと車の騒音、そして眩いばかりのネオンが交錯する都会のど真ん中だった。
「……ハッ! これだよ、これ。あたしにはこれくらい騒がしい場所の方が似合ってる」
タイフウは蒼いライダースジャケットの襟を立て、車の行き交う大通りを颯爽と歩く。 クラクション、排気音、人々の雑踏。
ローリンなら耳を塞ぐような喧騒を、彼女は心地よいBGMのように聞き流している。
「あすかさん、あそこに入ろうぜ」
彼女が俺の手を力強く引いて向かったのは、ガラス張りのショールームだった。
そこには、クロームメッキで磨き上げられた往年の名車が、宝石のように鎮座していた。
「見てな、あすかさん。このエンジンの鼓動、あたしの心臓とそっくりだと思わないか?」
剥き出しのピストンに触れながら、彼女の瞳が熱を帯びる。
俺の目には、彼女がこの都会のエネルギーさえも自らの燃料にし、蒼い光を変質させていくのが見えた。
さっきまでの火花じゃない。それは研ぎ澄まされた鋼の刃のように、薄く、鋭く光っていた。
「……タイフウ、楽しそうだな」
「当たり前だろ! あすかさんを独り占めして、こんなに熱い景色を見られるんだ。……なあ、あすかさん」
タイフウは立ち止まり、流れるテールランプの赤い光を背にして俺を振り返った。
「あたしから、目を離すなよ。……砂の上だろうが、こんな街中だろうが。ずっと、あたしだけを見てろ」
そう言って彼女は、冬の寒さを言い訳にするように、俺の腕に自分の腕を絡ませた。 ぎゅっ、と締め付けられる感触。
それは、可憐な乙女のスキンシップというよりは、獲物を決して逃さないための「拘束(ロック)」に近かった。
ダートの砂を搔き込む強靭な筋肉が、俺の腕を万力のようにホールドしている。
伝わってくるのは、温もりではない。
今にも爆発しそうなほど熱い、スプリント女王の心音だ。
1971年、冬。
それぞれの休日を終え、チーム・ルミナスは新たな年を迎える。
季節は巡り、約束の春へ。
クラシック戦線、そしてシニア級への挑戦が、すぐそこまで迫っていた。