1971年、1月3週。
中山レース場のターフは、冬の陽光を浴びて白茶けて見えた。
双眼鏡の向こうのゲート前。凍てつく空気を吸い込み、吐き出される少女たちの吐息が、白い霧となって漂っている。
冬の陽光を弾く白い体操服と、黒いハーフパンツ。胸元の緑のゼッケンが、風に小さく震えている。
4番ゲート。そこに収まるオペラローリンの姿を、俺はスタンドから追っていた。
震える指先。小刻みに揺れる真珠色の前髪。
けれど、その脚元――パワーを秘めたしなやかな筋肉は、かつて絶望に沈んでいた時とは違う。
静かだが、確かに燃える青い熱を帯びている。
(行け、ローリン。風を受けるのは、まだ先だ)
◆京成杯(GⅢ・中山芝2000m)
ゲートが弾け、12人の少女たちが一斉に冬のターフを蹴り上げた。
これまでなら、彼女は恐怖から逃れるように先頭へ躍り出ていただろう。
だが、今日の彼女は違う。
俺との約束を守るように、自分より大きなウマ娘の背中を風除けにして、バ群の中へとその身を沈めた。
前後左右からの圧迫感。顔に飛んでくる泥の礫。
その密度の高い「壁」は、臆病な彼女の精神をじわじわと削るはずだった。
実際、双眼鏡越しに見える彼女の表情は硬い。
それでも彼女は、「風はまだ先だ」と言った俺の言葉を命綱にするように、じっと歯を食いしばって脚を残している。
――第3コーナーから第4コーナーへ。
中山の短い直線が目前に迫る。
我慢は、ここまでだ。
密集した集団がばらける一瞬の隙間。真珠色の影が、弾かれたように外へと持ち出された。
「……今だ!」
俺の拳が、ぎゅっと握り込まれる。
先頭を奪いに行ったんじゃない。――そう見えた。
ローリンが探したのは、息を置ける場所だ。
風の当たる外へ出た瞬間、視界がひらける。胸の奥のノイズが、すうっと静かになる。
その静けさの中で、溜めていた脚がほどけた。
伸びる。
真珠色の髪をなびかせ、彼女は先頭集団へと襲いかかった。
その一瞬、彼女は間違いなく中山の主役だった。
けれど、この世界は甘くない。
背後から迫る、地面を裂くような轟音。
外からベルワイド、内からダコタ。
この世代を代表する強豪たちが、牙を剥いて彼女を飲み込もうと襲いかかる。
残り200メートル。中山名物、心臓破りの急坂。
これまでの彼女なら、ここで心が折れ、ずるずると後方へ沈んでいただろう。
だが、今日の彼女の脚は死んでいなかった。
◆泥を噛み、明日を掴む
並ばれる。一人、また一人と、影が横を通り過ぎていく。
それでも、ローリンは終わらない。
真珠色の髪を振り乱し、歯を剥き出しにして、格上の相手に必死に食らいつく。
坂を登り切るその一歩一歩が、鉛のように重い。肺を焼くような苦しさ。
美しさなどかなぐり捨て、彼女は泥を噛みながら、その場を譲るまいと粘り続けた。
……ゴール。
結果は4着。
掲示板に灯った数字は、勝利のそれではない。
けれど、俺は震える手で双眼鏡を握りしめていた。
最後の一歩まで、彼女は戦っていた。
「逃げ一杯」で自滅し、無抵抗のまま沈んでいた昨日までのオペラローリンは、もうどこにもいない。
歩様を乱しながら戻ってくる彼女の元へ、俺は双眼鏡を畳み、柵沿いの通路を走り出した。
汗と泥にまみれ、肩で息をする彼女。その真珠色の髪は乱れ、瞳には悔し涙が滲んでいる。
「……トレーナー、さん」
俺の姿を見つけるなり、彼女は糸が切れたようにバランスを崩した。
俺は慌ててその身体を支える。
ずしりとした重み。泥と汗の匂い。
そして、俺の腕の中で爆発しそうなほど早鐘を打っている、熱い心臓の鼓動。
「……ごめんなさい。私、やっぱり……勝てなくて」
消え入りそうな声に、俺は首を横に振った。
支えた腕に、力を込める。
「違うよ、ローリン」
俺は、泥だらけの彼女の背中を、ポンポンと叩いた。
「君は今日、最後まで戦い抜いた。……掲示板に載ったんだ。
君のその脚が、俺たちの『次』を繋いでくれたんだよ。
明日も、明後日も、俺たちは走れる」
1971年、冬。
勝利には届かなかった。けれど、俺たちは確かに、死の淵から生還したのだ。
俺の腕の中で小さく震える彼女の体温を感じながら、俺は次の、もっと高い場所にあるゴールを静かに見据えていた。