3月1週。
タイフウがフェブラリーステークスで今年初の中央GⅠの頂点を掴み、栗東校がその熱狂の余韻に包まれていた頃。
次週にフィリーズレビュー。――桜花賞への大事な前哨戦を控えたキョウエイグリーンが、トレーニングを終えた足でトレーナー室に飛び込んできた。
「ねえ、トレーナーさん! タイフウ先輩から聞いたよ」
練習終わりの火照った身体から、白い吐息がこぼれる。
グリーンは俺のデスクを両手でバンと叩いた。その瞳にはレース前のような鋭さと、それ以上に強い独占欲が渦巻いている。
「レースに勝ったご褒美にローリン先輩と海に行って、タイフウ先輩と夜遊びしたんでしょ? ……ズルい! アタシも阪神で勝ったのに! クラシックが始まる前にテンション上げたいし、アタシもご褒美欲しい! 今!」
「……グリーン、お前なぁ。来週は大事なステップレースなんだぞ?」
「分かってるよ! だからこそ、今なの! タイフウ先輩のあのドヤ顔見てたら、アタシのやる気エンジンが空回りしちゃうんだもん!」
俺は困って、隣でクスクスと笑っている由衣さんに視線を向けた。
由衣さんはいつものように助け舟を出すが、今日のその目は少しだけ楽しげに細められていた。
「いいじゃないですか、あすかさん。勝った子の特権です。……『次も勝たせたい』なら、なおさら、ね?」
彼女の言葉に、俺は観念した。
確かに、彼女は昨年末に最優秀ジュニア級ティアラという最高の栄誉を、このチームにもたらしてくれた。
これから始まる過酷なクラシック戦線。その前に、この新緑の閃光のメンタルを整えるのも、トレーナーの仕事だ。
「……分かったよ。今日の午後は予定を空ける。どこへ行きたいんだ?」
「やったぁ! えへへ、やっぱりトレーナーさんはこうでなくっちゃ! そうだなぁ……アタシ、思いっきり甘いものが食べたい! 梅田に、すっごいパフェのお店があるんだって!」
◆陽だまりの梅田、極彩色の自分
数時間後。
俺たちは私服に着替え、春の気配が漂い始めた大阪・梅田の街を歩いていた。
タイフウと歩いた夜の中之島とは違い、昼間の都会は活気に溢れている。グリーンは新緑を思わせる鮮やかなチェックのスカートを翻し、俺の腕をぎゅっと掴んで人混みをすり抜けていく。
「見て、トレーナーさん! ほら、あそこ!」
駅前の電器屋のショーウィンドウに、最新式のカラーテレビが何台も並んでいた。
札幌五輪の熱気が残る中、その画面の一つが、昨年の阪神JFのダイジェストを鮮明な色彩で映し出している。
グリーンは画面へ身を乗り出し、自分が一番前で駆け抜ける瞬間に、誇らしげに胸を張った。
「んー、いい画だね! やっぱりアタシの緑色は、カラーじゃないと映えないなあ」
「……随分と自信満々だな」
「当然でしょ? ……アタシ、やっぱり一番が好き。誰よりも速く走って、誰よりも目立って、トレーナーさんに真っ先に褒めてもらうのが、世界で一番大好きなの」
パフェの店に入り、運ばれてきた山盛りのフルーツパフェを前に、彼女は子供のように目を輝かせた。
スプーンを口に運ぶその仕草には、女王としての気品と、一人の女の子としての計算された無邪気さが混ざっている。
「……トレーナーさん。来週のフィリーズレビュー、そして桜花賞。アタシが全部勝って、タイフウ先輩よりも、ローリン先輩よりも、もっと眩しい光を見せてあげる」
彼女はパフェのクリームを少しだけ鼻につけたまま、不敵に笑った。
「……ついてるぞ、ここ」
俺が指先でそれを拭ってやると、彼女はきょとんとして、すぐに花が咲くように笑った。
「ん、ありがと! ……えへへ、やっぱり『トレーナーさん』だね」
一瞬だけ見せた、小悪魔のような流し目。
確信犯だ。でも、今の俺にはそのあざとさすら頼もしく思えた。
「ねえ……ずっと、アタシに期待しててね? アタシ、期待されればされるほど、速くなれるから」
店を出ると、春の風が吹いた。
彼女の表情から、甘い余韻が消え、戦場を見据えるアスリートの顔に戻る。
その背中は、春の光みたいに眩しくて――同じくらい、危うい。
1972年、春。
二人の先輩が切り拓いた道の上で、新緑の女王がいよいよその真価を発揮しようとしていた。
次週、フィリーズレビュー。桜への最終試走が始まる。