3月2週、阪神レース場。
春の陽光が降り注ぐ中、ティアラ路線第一弾・桜花賞への重要なステップレース、フィリーズレビューの幕が上がろうとしていた。
パドックに現れた1番人気のグリーンは、先週の梅田での約束を果たした充実感からか、かつてないほどに研ぎ澄まされたオーラを纏っていた。
「トレーナーさん、見てて。アタシのやる気、今なら阪神の直線を焼き切っちゃうくらいあるんだから!」
シューズの紐を締め直す彼女の瞳には、一切の迷いがない。
俺の視線の先には、同じく先頭を譲らない構えの強敵たちがいた。
宿敵・セシルビーチ、そしてヒシイレーン。
先頭を譲る気のない者が、三人。パドックの空気が、目に見えない火花を散らしている。
「グリーン、相手もハナを主張してくる。激しい競り合いになるかもしれないが……」
「ふふ、またこの子たち、いるね。……でもまあ、見ててよ」
彼女は不敵に笑い、俺の胸元を軽く指で突いた。
「逃げでアタシに敵う子は、もう誰もいないってことを、今ここで教えてあげる」
◆フィリーズレビュー(GⅡ・阪神芝1400m)
ファンファーレが鳴り響き、11人の少女がターフへ解き放たれる。
ゲートが開いた瞬間、勝負は決していた。
セシルビーチとヒシイレーンが猛然とダッシュを仕掛けるが、キョウエイグリーンの加速は、それを次元の違うレベルで凌駕していた。
「……速い! 競り合うまでもない、あっさりとハナを奪った!」
道中、セシルビーチが必死に食らいつこうと鞭を入れる。
だが、距離は詰まらない。むしろ、追えば追うほど、残酷なまでに背中が遠ざかっていく。
第4コーナーを回り、直線。待ち受けていたのは阪神の急坂だ。
後続が必死に追い出しを開始し、喘ぐように坂を登る中、グリーンだけが涼しい顔で――まだ「持ったまま」の手応えで駆け上がっていく。
「行け、グリーン! 桜まで突き抜けろ!」
俺の叫びに応えるように、彼女が弾けた。
一完歩ごとに差はみるみる開き、最後は2着のアチーブスターに決定的な5バ身差。
背後から聞こえるはずの、ライバルたちの荒い息遣いも、激しい蹄音も、今の彼女にはもう届かない。
聞こえるのは、彼女を祝福する春風の歌と、万雷の歓声だけ。
1分23秒4。
ジュニア女王が、その圧倒的な格の違いを阪神の地に見せつけた瞬間だった。
◆逃げ切った先に見える「桜」
レース後。
引き揚げてきたグリーンは、汗を拭いながらも誇らしげに胸を張った。
「ね! 逃げでアタシに敵う子、もういないね!」
俺の前に立つと、彼女は少しだけ息を弾ませながら、いたずらっぽくウインクをする。
「……ああ。これはもう『逃げ』じゃない。完璧な独走劇(ワンサイドゲーム)だ。……最高の『正解』だったよ、グリーン」
俺が歩み寄り、頑張りを褒めるように頭を撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めた。 これで桜花賞への優先出走権を盤石なものにし、士気は最高潮に達した。
「次は本番、桜花賞だね。トレーナーさん……アタシ、最高に綺麗な桜を、一番前で見せてあげるから。約束だよ?」
1972年、3月。
新緑の閃光は、誰にもその背を触れさせることなく、満開の桜が待つ次なる舞台へと突き進んでいく。