ウマ娘競バ史   作:geko

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第46話:真珠の抱擁 ※金鯱賞

 3月3週。

 中京レース場を覆う雲は低く、時折混じる小雨が芝を重く濡らしていた。

 伝統のGⅡ、金鯱賞。

 京都記念での「手応えのある2着」を経て、オペラローリンと俺が目指すのは、大阪杯へ向けた完勝の二文字だった。

 

「ローリン、バ場は稍重だ。タフな展開になるが、今日は積極的に前を狙おう。お前の力なら、この程度の芝、苦にはならないはずだ」

 

 パドック前の控室。

 最終チェックを終えた俺の言葉に、ローリンは拳を小さく握りしめ、静かに、けれど強く頷いた。

 

「はい、あすかさん。私の得意な距離……この2000メートルで。今日は“届かなかった”で終わらせません」

 

 1番人気という期待の重圧を背負い、真珠の輝きを纏った少女が、湿ったターフへと足を踏み出した。

 

◆金鯱賞(GⅡ・中京芝2000m)

 

 ファンファーレが鳴り止み、一瞬の静寂。

 ゲートが開き、18人の少女が一斉にターフへ解き放たれる。

 

 俺とローリンの狙いは先団につける積極策だった。だが、中枠という配置が災いする。

 

「……っ、バ群が……!」

 

 外から被せてくる子たちの勢いに押され、ローリンは進路を塞がれる形になってしまう。

 前へ出ようとするたびに壁に阻まれ、位置取りはズルズルと後方へ。第4コーナーを迎えても、前を走る子たちの背中が遠い。

 

「あすかさん、ローリンちゃんが……前に出られません!」

 

 スタンドで見守る由衣さんの悲鳴のような声。

 奇しくも前走――京都記念と同じ展開。

 ――いや、違う。

 双眼鏡越しの真珠色の瞳は、諦めていなかった。彼女は爆発の瞬間を見極めていた。

 

 最後の直線。中京の長い坂が、脱落していく者たちをふるいにかける。

 稍重の芝に脚を取られ、他の子が脚色を鈍らせる中――ただ一人、泥を蹴り上げて加速する少女がいた。

 

「今だ、ローリン! そこをこじ開けろ!」

 

 俺の咆哮に呼応するように、ローリンがわずかな隙間へ身体をねじ込んだ。

 スマートな彼女には似合わない、強引な突破。

 泥が顔に飛ぶ。白い体操服が汚れる。

 けれど、彼女は怯まない。

 真珠の脚が泥濘を切り裂き、前を走るメジロゲッコウを猛追する。

 

「……届いて、お願い!」

 

 京成杯の雪、皐月賞の壁、鳴尾記念の悔しさ。

 そのすべての記憶を燃料にして、真珠の光が泥濘の中で銀色の閃光へと変わる。

 ゴール板の直前、力強く突き抜けた彼女は、メジロゲッコウを4分の3バ身抑え込み、先頭で駆け抜けた。

 

 15戦目。

 デビューから長い時間をかけ、幾多の惜敗を乗り越えて掴み取った初めての重賞タイトル。

 検量室前、白い吐息をこぼしながら戻ってきたローリンの顔は、泥で汚れながらも、これまでで一番晴れやかだった。

 

「……あすか、さん……!」

 

 俺と目が合った瞬間、張り詰めていた糸が切れたようだった。

 普段の彼女なら、「汚れがついてしまいますから」と一歩下がる場面だ。

 けれど今日の彼女は、その距離さえもどかしいと言わんばかりに、俺の懐へと滑り込んできた。

 

「わ……っ、ローリン!?」

 

 制御を失った身体が、俺に預けられる。

 鼻を突くのは、雨と芝の匂い、そして彼女の熱っぽい体温。

 彼女は自分が泥だらけであることなど気にも留めず、すがるように俺の胸へ腕を回した。

 

「勝てました……っ。お待たせ、しました……ようやく、あすかさんに……一番の報告が……!」

 

 俺のコートを掴む彼女の指が、歓喜と安堵で震えている。

 俺の胸元に、彼女の頬についていた泥が広がり、シミを作っていく。

 けれど、そんなことはどうでもよかった。

 伝わってくるのは荒い吐息と、今にも爆ぜそうなほど熱い鼓動。

 俺は一瞬だけ躊躇って――その細い肩を、力強く抱き寄せた。

 

「ああ。最高だったぞ、ローリン。……長かったな。本当におめでとう」

 

「……はいっ……!」

 

 泥だらけの勝利。けれどその涙に濡れた笑顔は、どんな宝石よりも眩しく、春の中京を照らし出していた。

 これで目標の大阪杯へ、最高のバトンが繋がった。

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