4月2週、阪神レース場。
先週の大阪杯から続くGⅠ連戦。
満開を過ぎ、名残惜しそうに舞い散る桜吹雪の中、ティアラ三冠の初戦・桜花賞の幕が上がろうとしていた。
しかし、俺の心境は春めいた景色とは裏腹に、重い懸念に包まれていた。
「……17番。また、外枠か」
出走表に記された数字。
先週の大阪杯でローリンが外を回らされ、涙を飲んだ記憶が脳裏をよぎる。
阪神マイルの外枠。
無理にハナを奪いに行けば、脚を使わされる。
かといって控えれば、自分の形を見失う。
――どちらを選んでも、GⅠでは致命傷になり得る。
指示を決めきれず、俺が唇を噛んだ、そのとき。
準備を終えたグリーンが、いつもの屈託のない笑みで俺の背中を叩いた。
「あはは! ついてないね、トレーナーさん。でもなんとかなるでしょ!」
「グリーン、お前な……。これはGⅠなんだぞ」
「分かってるよ。でも、アタシが一番速いってことは変わらないもん。外だろうがどこだろうが、アタシが一番前でゴールすれば、それが『正解』でしょ?」
新緑の瞳は、プレッシャーなんて最初から存在しないみたいに澄んでいた。
俺は――吹っ切れたように頷き、その背中をターフへ送り出した。
◆桜花賞(GⅠ・阪神芝1600m)
ファンファーレが鳴り響き、18枚のゲートが跳ね上がった。
グリーンは抜群のスタートを決める。
だが、内の先行勢も譲らない。壁が厚く、インコースに入れない。
彼女は――コースの外々、砂の浮いた荒れた部分を走らされ続けた。
「あすかさん、グリーンちゃんが……ずっと外です!」
由衣さんの悲鳴に近い声。
距離ロスは数バ身に及ぶ。常識的に考えれば、スタミナが尽きて沈むパターンだ。
――だが、第4コーナー。絶望が歓喜に変わる。
内の娘たちが進路を探り合った、その一瞬の隙。
グリーンは誰よりも早く、外から鋭い弧を描いて加速を開始した。
外を回っているのに、差が詰まる。
いや、むしろ加速している。
一完歩ごとに前が近づき、コーナーだけで何人も飲み込んでいく。
「行け、グリーン! 全部ねじ伏せろ!」
直線を向いた瞬間、彼女はすでに先頭に立っていた。
そこからさらに突き放す。
背後からは、3番人気のタケフブキが、その名の通り猛吹雪のような末脚で追いすがってくる。
だが、春の嵐は止まらない。
一完歩ごとに桜を散らし、新緑の閃光が阪神の坂を駆け上がる。
1バ身のリード。
タケフブキの追撃をしのぎ切り、グリーンは桜の女王へと上り詰めた。
◆桜吹雪のタックル
検量室前。
汗を流し、白い吐息を弾ませながら戻ってきたグリーンの姿を見つけた瞬間、俺は言葉を失った。
「トレーナー! 桜の女王、獲ったよ!」
彼女は満面の笑みで、弾けるように俺の胸に飛び込んできた。
抱擁というよりは、歓喜のタックルだ。
受け止めた俺がよろめくほど、彼女の全身から「やったぞ!」というエネルギーが溢れている。
「ああ、おめでとう、グリーン。……最高の走りだった」
「えへへ、見てた? アタシが一番綺麗だったでしょ? 先週の悔しさ、ちゃんと晴らしたからね!」
俺の腕の中で、グリーンは誇らしげに鼻を鳴らした。
1分35秒6。
外枠の不利を力と意志でねじ伏せた、歴史に残る桜花賞。
新緑の女王は、その冠にふさわしい輝きを纏っていた。
だが――俺の視線は、無邪気な彼女の笑顔の向こうにある「次」の選択肢を見据えていた。
次は、樫の女王決定戦、オークス。距離は2400メートル。
短距離適性の彼女にとって、それはあまりに過酷な道のりだ。
だが、もう一つの道がある。
府中の1600メートル。スピード自慢たちが集う、マイルの頂点。
(……行くぞ、グリーン。オークスじゃない)
俺たちが目指すのは、伝統の二冠じゃない。
桜花賞と、NHKマイルカップ。
誰も成し遂げたことのない、新時代の「変則二冠」だ。