ウマ娘競バ史   作:geko

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第49話:新緑の反逆、常識を越える選択

 1972年、4月3週。

 桜花賞を制した新緑の女王――キョウエイグリーンの周囲は、かつてない喧騒に包まれていた。

 1970年代。それは「三冠」という言葉が、絶対的な魔力を持っていた時代だ。

 桜を制した者は疑いようもなく2400メートルの「樫の女王(オークス)」を目指す。

 それがファン、メディア、そして競バ界全体が求める、たった一つの正解だった。

 

 だがトレーナー室でひとり、出走登録表を睨む俺の指は止まったままだった。

 俺の目が捉えるグリーンの光は、長く緩やかなスタミナ勝負のものじゃない。

 それは1600メートルという極限の速度域でこそ、最も鮮烈に、最も美しく爆ぜる――マイラーの輝きだ。

 

「……2400メートル、走らせていいんだろうか」

 

 勝たせたい。いや、勝たせる以前に――壊したくない。

 世間の期待に応えて、適性の外にあるオークスへ向かわせるべきか。

 それとも、俺たちだけの“正解”を選ぶべきか。

 

 葛藤の底に沈みかけた、その時。

 ノックもなしに扉が勢いよく開いた。

 

「トレーナーさーん! 練習メニュー作るの、まだ終わんないの?」

 

 春の陽光を背負って入ってきたグリーンは、練習終わりの火照った顔で俺を覗き込み――すぐに、俺の表情の硬さに気づいたらしい。ふっと眉を寄せる。

 

「……どうしたの? そんな真面目な顔してさ。トレーナーさんらしくないよ」

 

「グリーン。……ちょっと、真面目な相談がある」

 

 彼女は俺のデスクの角に腰掛け、不思議そうに首を傾げる。

 俺は意を決して、あの新緑の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 

「オークスとNHKマイルカップ……お前は、どっちに出たい?」

 

「……え?」

 

 グリーンは一瞬きょとんとして、それから当たり前みたいに言った。

 

「桜花賞を勝ったら、次は普通、オークスに行くもんでしょ?」

 

 当然の答えだ。トリプルティアラへの憧れがないはずがない。

 だけど俺は、そこで引けなかった。

 

「俺は、その“普通”って前提が間違ってると思ってる。……お前の距離適性は、マイラーだ。俺はそう確信している」

 

 俺は登録表を指で叩く。

 そこに並ぶ「オークス」の文字は、栄光の誘いであると同時に、巨大な罠にも見えた。

 

「NHKマイルカップ。……数年前に新設されたばかりの、“春のクラシック級マイル王決定戦”。歴史はまだ浅いが、伝統よりもスピードに特化した快速自慢が集まる場所だ」

 

 俺は言葉を継ぐ。

 

「世間はお前が樫の舞台に立つのを待ち望んでる。でも、そこで自身のスピードを殺して苦しむ姿を――俺は見たくない」

 

 グリーンの瞳が、一瞬だけ鋭く細められた。

 女王のプライドが、俺の言葉の真意を探るための静寂。

 沈黙を破ったのは、彼女らしい弾ける笑い声だった。

 

「あはは! なにそれ。……トレーナーさん、めっちゃ優しいじゃん」

 

 次いで彼女は、俺のデスクを軽く叩き、不敵な笑みを浮かべる。

 

「でもさ――だったら、なおさら面白いね」

 

「……面白い?」

 

「うん。だってNHKマイルって、スピード自慢のスペシャリストが集まるんでしょ? 2400メートルをちんたら我慢して走るより、最初から最後までアクセル全開で走るほうが、アタシには合ってる気がする」

 

 彼女はニカっと笑った。

 

「みんなが『絶対こうなる』って信じてる未来を、アタシたちがめちゃくちゃにしてやるの。“桜の女王は樫へ”って常識ごと、まとめて置き去りにしにいこうよ」

 

 その笑みは挑発で、宣言で、そして――俺への絶対的な信頼だった。

 

「……いいよ、あすかさん。アタシは、アタシが一番輝けるってあすかさんが言ってくれる場所で――日本で一番速いって証明してあげる!」

 

 常識に背を向け、自分の“正解”を貫く。

 新緑の閃光は、誰もが待ち望んだオークスを捨て、マイルの王国へと舵を切った。

 桜の女王が、樫へ向かわない。

 ――その事実が、クラシックという神話の根元を揺さぶることになるとも知らずに。

 

◆雑音と信頼

 

 NHKマイルカップまで、あと数週間。

 栗東の空は、世間の喧騒を反映するかのようにどんよりと曇っていた。

 トレーナー室のソファで、俺は週刊誌のページをめくっていた。そこに踊るのは、容赦のない見出しだ。

 

『桜の女王、敵前逃亡』

『伝統への冒涜』

『“速すぎる女王”、マイルでこそ見たい』

『短距離偏重の愚行、名ウマ娘を潰す若手トレーナー』

 

 1972年の常識において、クラシック級ウマ娘が適性を理由にその路線を降りることは、許されざる「弱腰」と映っていた。

 だが、その中にごく僅かだが、俺たちの選択に期待する声も混じっている。時代が、割れようとしているのだ。

 活字の嵐が、ボディブローのように胃を締め付ける。

 

「――もー! またそんな暗い顔して!」

 

 突然、手元から雑誌が引っこ抜かれた。

 顔を上げると、トレーニングウェア姿のグリーンが、呆れたように頬を膨らませて立っている。

 

「グ、グリーン……。いつの間に」

 

「ノックしたけど返事がないんだもん。……で? また外野がうるさいこと書いてるの?」

 

 彼女は奪い取った雑誌にパラパラと目を通すと、鼻で笑った。

 そして、その雑誌をくしゃりと丸めると、部屋の隅にあるゴミ箱へ向かって、スリーポイントシュートのように放り投げた。

 スパンッ、という乾いた音が、部屋の重い空気を裂いた。

 

「いい? よーく聞いて、あすかさん。走るのはアタシ。勝つのもアタシ。そのアタシが『マイルがいい』って言ったんだよ?」

 

 グリーンは俺の目の前に身を乗り出し、両手で俺の頬を挟んだ。

 至近距離にある新緑の瞳。そこには、迷いなど欠片もなかった。

 

「あいつらは知らないだけ。アタシのスピードが、2400メートルの“我慢比べ”に収まりきる器じゃないってことを」

 

「グリーン……」

 

「それにね、アタシは怒ってるんだよ? あすかさんが『アタシのために』って選んでくれた最高の道を、あんな紙切れごときに文句言われてさ」

 

 彼女の手のひらの温もりが、俺の強張った表情筋をほぐしていく。

 彼女は悪戯っぽく、けれど力強く言った。

 

「だから胸張ってよ。アタシの自慢のトレーナーなんでしょ? あすかさんが揺らいだら、アタシがトップスピードで走れないじゃん」

 

「……ああ。そうだな。……悪かった」

 

「よろしい! じゃあ、証明しに行こうか。アタシたちの選択が、世界で一番『正解』だったってことを!」

 

 彼女の笑顔が、俺の中の雑音をすべて消し去ってくれた。

 この子のために、俺ができることはただ一つ。迷わず、彼女が駆け抜けるための滑走路を整えることだけだ。

 

 外野の声など、彼女が置き去りにする風の音に過ぎない。

 新緑の反逆が始まる。




 活動報告の方に、本編ではあまり語る暇のないトレセン学園での日常回を投稿しています。
 興味がありましたらそちらも読んでみてください。
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