中山からの帰りの列車。
ガタゴトとレールの継ぎ目を刻む単調なリズム。
通路に漂う紫煙と、暖房の埃っぽい匂い。
窓の外は漆黒で、時折すべる街灯の光だけが、隣で眠る少女の横顔を一瞬照らした。
俺は駅の売店で買ったばかりの夕刊紙を、音を立てないようにそっと広げた。
鼻を突く、安っぽいインクの匂い。
一面を飾るのは、春のクラシック戦線を占う有力ウマ娘たちの華々しい見出しだ。
その紙面の片隅。虫眼鏡でもなければ見落としてしまいそうなリザルト欄に、俺たちの戦果は押し込められていた。
『中山11R 4着 オペラローリン』
たった一行。
活字にしてしまえば、それは「敗北」のカテゴリーに分類される数字でしかない。
誰の記憶にも残らない、ありふれた掲示板の隅っこ。
だが、俺はこのインクのかすれた一行を、指先で愛おしむようになぞった。
指の腹に、安っぽい黒いインクがうっすらと移る。
――確かに、ここにいる。
逃げて自滅していた彼女が、泥を被り、揉まれながらも、最後までレースの形を保って帰ってきた。
この「4着」にどれだけの価値があるか。それを知っているのは、世界中で俺と彼女だけだ。
俺は新聞を丁寧に折りたたみ、鞄の奥へと仕舞い込んだ。
いつか、この一行の位置を変える日のために。
隣を見ると、真珠色の髪は乱れ、慣れない激戦と長距離移動に疲れ果てた彼女は、俺の肩に頭を預けて深い眠りに落ちていた。
色白の頬が、呼吸に合わせてかすかに上下する。
その細い指先は、眠ってなお、俺のコートの袖を離さない。
行きは恐怖で白くなるほど強く握りしめていた手が、今は安堵したように、ただそこに触れている。
まるで、この温もりだけが、彼女を現実に繋ぎ止めるアンカーであるかのように。
「……よく頑張ったな」
小声で呟き、俺は彼女の指の上に、そっと自分の手を重ねた。
中山の心臓破りの坂。ライバルたちの強烈な末脚に飲み込まれながらも、彼女は最後まで脚を投げ出さなかった。
かつての彼女を知る者たちは、「4着か」と鼻で笑うかもしれない。
けれど、俺の目には分かる。
彼女の魂に、消えることのない小さな灯火がともった瞬間を。
◆栗東の冷気、変わる風向き
栗東へ戻ると、敵意だけじゃない視線が俺たちに刺さった。
正門を通った先の広場。
すれ違うベテランのトレーナーたちが、足を止め、俺の隣を歩くローリンに、あるいは俺の胸元のバッジに、いぶかしげな視線を向ける。
「……見たか、京成杯。あの逃げウマ娘が、まさかバ群の中で我慢するとはな」
「脚質転換か。連れてた若いの……思い切ったな。……でも、ちゃんと見てやれよ」
ひそひそと交わされる囁き。
それは称賛ではない。まだ、単なる好奇と、ほんの少しの心配が混じったものに過ぎない。
けれど、ローリンはかつてのように耳を伏せ、逃げるように俺の背中に隠れることはしなかった。
俺の袖を掴む手には力がこもっている。怯えじゃない。――踏みとどまるための力だった。
「トレーナー、さん……」
トレーニングコースの隅。
霧の立ち込める朝の静寂の中で、彼女は俺を見上げて言った。
「私、次は……負けたくない。追い越されて、誰かの背中が遠くなっていくの、もう嫌なんです」
真珠色の瞳に、悔しさが鮮やかな色彩となって宿っている。
その言葉に応えるように、ローリンの脚から――あの不快な軋みが消えていた。
まだ弱々しいけれど、確かな「旋律」が生まれようとしていた。
◆硝子の心を守る采配
次走。
本来なら、京成杯の好走を受けて、より大きな舞台、クラシックの足掛かりとなる関東の重賞を目指すのが定石だろう。
けれど、俺は手元のスケジュール表から、当面は関西以外のレースを外した。
「次は、関西のレースを使おうと思う。……淀の1800メートル、きさらぎ賞だ」
俺の言葉に、彼女は驚いたように目を瞬かせる。
「遠くへ行かなくて、いいんですか……? 関東のトライアルじゃなくて」
「ああ。君はあの移動でかなり疲れてる。……心が身体に追いつくまでは、無理な移動はさせたくない。君の“音”が、まだ細いから」
精神の脆さ。それは欠点だと決めたくない。
繊細さは、反応の鋭さになる。
だから今は――この栗東で、俺の目が届く距離で育てる。
「……はい。トレーナーさんがそう言うなら。私、どこまでも……」
彼女はそう言って、俺の右手を両手で包み込んだ。
まだ少し冷たいけれど、中山の坂を登る前よりも、ずっと確かな体温がそこにはあった。
1971年、冬の終わり。
蕾はまだ、硬く閉じている。
けれど、俺たちの歩む足元の土の下には、間違いなく春の気配が芽吹き始めていた。