ウマ娘競バ史   作:geko

5 / 89
第5話:春待つ心、重なる指先

 中山からの帰りの列車。

 ガタゴトとレールの継ぎ目を刻む単調なリズム。

 通路に漂う紫煙と、暖房の埃っぽい匂い。

 窓の外は漆黒で、時折すべる街灯の光だけが、隣で眠る少女の横顔を一瞬照らした。

 

 俺は駅の売店で買ったばかりの夕刊紙を、音を立てないようにそっと広げた。

 鼻を突く、安っぽいインクの匂い。

 一面を飾るのは、春のクラシック戦線を占う有力ウマ娘たちの華々しい見出しだ。

 その紙面の片隅。虫眼鏡でもなければ見落としてしまいそうなリザルト欄に、俺たちの戦果は押し込められていた。

 

『中山11R 4着 オペラローリン』

 

 たった一行。

 活字にしてしまえば、それは「敗北」のカテゴリーに分類される数字でしかない。

 誰の記憶にも残らない、ありふれた掲示板の隅っこ。

 だが、俺はこのインクのかすれた一行を、指先で愛おしむようになぞった。

 指の腹に、安っぽい黒いインクがうっすらと移る。

 

 ――確かに、ここにいる。

 逃げて自滅していた彼女が、泥を被り、揉まれながらも、最後までレースの形を保って帰ってきた。

 この「4着」にどれだけの価値があるか。それを知っているのは、世界中で俺と彼女だけだ。

 

 俺は新聞を丁寧に折りたたみ、鞄の奥へと仕舞い込んだ。

 いつか、この一行の位置を変える日のために。

 

 隣を見ると、真珠色の髪は乱れ、慣れない激戦と長距離移動に疲れ果てた彼女は、俺の肩に頭を預けて深い眠りに落ちていた。

 色白の頬が、呼吸に合わせてかすかに上下する。

 

 その細い指先は、眠ってなお、俺のコートの袖を離さない。

 行きは恐怖で白くなるほど強く握りしめていた手が、今は安堵したように、ただそこに触れている。

 まるで、この温もりだけが、彼女を現実に繋ぎ止めるアンカーであるかのように。

 

「……よく頑張ったな」

 

 小声で呟き、俺は彼女の指の上に、そっと自分の手を重ねた。

 中山の心臓破りの坂。ライバルたちの強烈な末脚に飲み込まれながらも、彼女は最後まで脚を投げ出さなかった。

 かつての彼女を知る者たちは、「4着か」と鼻で笑うかもしれない。

 けれど、俺の目には分かる。

 彼女の魂に、消えることのない小さな灯火がともった瞬間を。

 

◆栗東の冷気、変わる風向き

 

 栗東へ戻ると、敵意だけじゃない視線が俺たちに刺さった。

 

 正門を通った先の広場。

 すれ違うベテランのトレーナーたちが、足を止め、俺の隣を歩くローリンに、あるいは俺の胸元のバッジに、いぶかしげな視線を向ける。

 

「……見たか、京成杯。あの逃げウマ娘が、まさかバ群の中で我慢するとはな」

「脚質転換か。連れてた若いの……思い切ったな。……でも、ちゃんと見てやれよ」

 

 ひそひそと交わされる囁き。

 それは称賛ではない。まだ、単なる好奇と、ほんの少しの心配が混じったものに過ぎない。

 けれど、ローリンはかつてのように耳を伏せ、逃げるように俺の背中に隠れることはしなかった。

 俺の袖を掴む手には力がこもっている。怯えじゃない。――踏みとどまるための力だった。

 

「トレーナー、さん……」

 

 トレーニングコースの隅。

 霧の立ち込める朝の静寂の中で、彼女は俺を見上げて言った。

 

「私、次は……負けたくない。追い越されて、誰かの背中が遠くなっていくの、もう嫌なんです」

 

 真珠色の瞳に、悔しさが鮮やかな色彩となって宿っている。

 その言葉に応えるように、ローリンの脚から――あの不快な軋みが消えていた。

 まだ弱々しいけれど、確かな「旋律」が生まれようとしていた。

 

◆硝子の心を守る采配

 

 次走。

 本来なら、京成杯の好走を受けて、より大きな舞台、クラシックの足掛かりとなる関東の重賞を目指すのが定石だろう。

 けれど、俺は手元のスケジュール表から、当面は関西以外のレースを外した。

 

「次は、関西のレースを使おうと思う。……淀の1800メートル、きさらぎ賞だ」

 

 俺の言葉に、彼女は驚いたように目を瞬かせる。

 

「遠くへ行かなくて、いいんですか……? 関東のトライアルじゃなくて」

「ああ。君はあの移動でかなり疲れてる。……心が身体に追いつくまでは、無理な移動はさせたくない。君の“音”が、まだ細いから」

 

 精神の脆さ。それは欠点だと決めたくない。

 繊細さは、反応の鋭さになる。

 だから今は――この栗東で、俺の目が届く距離で育てる。

 

「……はい。トレーナーさんがそう言うなら。私、どこまでも……」

 

 彼女はそう言って、俺の右手を両手で包み込んだ。

 まだ少し冷たいけれど、中山の坂を登る前よりも、ずっと確かな体温がそこにはあった。

 

 1971年、冬の終わり。

 蕾はまだ、硬く閉じている。

 けれど、俺たちの歩む足元の土の下には、間違いなく春の気配が芽吹き始めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。