5月2週、金曜日。
早朝のトレセン学園栗東校の前に、納車されたばかりの濃紺のステーションワゴンが停まっていた。
チーム・ルミナスの軌道に乗った戦績がもたらしてくれた、頼もしい新しい足だ。
留守番組の二人――先週のかしわ記念で激走したタイフウと、そのケアに当たる由衣さんには、昨晩のうちに挨拶を済ませてある。
「タイフウちゃんのことは私に任せて、行ってらっしゃい。……お土産、期待してますからね?」
頼もしい助手の言葉に甘え、今回の遠征は俺と二人のウマ娘だけの旅となる。
俺はトランクにボストンバッグを詰め込みながら、後部座席に飛び乗るグリーンと、助手席で地図帳を広げるローリンを見やった。
今回の東京遠征、あえて新幹線ではなく車を選んだのには、二つの理由がある。
一つは、防波堤として。
オークスを蹴ったグリーンに対する世間の風当たりは強い。公共交通機関で好奇の目に晒されるより、この鉄の箱の中なら、彼女を雑音から守り抜ける。
もう一つは、特効薬として。
助手席のローリンにとって、関東は昨年の皐月賞で惨敗し、心が折れかけた因縁の地だ。一人で考え込む時間を与えないよう、あえて賑やかな連れを用意したかった。
「しゅっぱーつ! 目指せ東京! 目指せ美味いもの!」
後部座席から、グリーンの能天気な声が弾けた。
◆ハイウェイ・バーガー
1972年、まだ真新しい舗装が続く東名高速道路を、ワゴンは快調に滑走していた。
流れる新緑の景色。カーステレオのAMラジオからは、この春の大ヒット曲『瀬戸の花嫁』が軽快に流れている。
そして何より、後ろのグリーンが静かになる気配がない。
「ねー、あすかさん、お腹すいた! なんか食べよ!」
静岡に入ったあたりで、案の定グリーンが騒ぎ出した。
俺は苦笑しながらハンドルを切り、浜名湖サービスエリアへと車を滑り込ませる。
「しょうがないな……少し早いが昼にしよう。せっかくだから『流行り』のものを買ってきてやるよ」
俺が売店のスナックコーナーで調達してきたのは、銀紙に包まれた温かいハンバーガーだ。
銀座に専門店ができて以来、この「パンに肉を挟んだ西洋食」は若者たちの間で爆発的なブームになっていた。
「わっ! ハンバーガーじゃん! さっすがあすかさん、話が分かる~!」
グリーンは歓声を上げて包み紙を剥がすと、大きな口でガブリと噛みついた。
「んぐっ……ん~! これこれ! このチープでジャンキーな味がたまんないの!」
「ふふ、グリーンちゃん、口の周りにケチャップがついてますよ」
一方で、助手席のローリンは少し困ったように、銀紙の端を摘んでいた。
「あの……あすかさん。車の中で、手づかみで食事をするなんて……お行儀が悪くありませんか? もしシートを汚してしまったら……」
「気にするな。これは俺たちの車だ、誰に気兼ねする必要もない。それに、こうやって景色を見ながら頬張るのが、ドライブの醍醐味ってもんだろ?」
「……醍醐味、ですか」
ローリンは意を決したように、両手で――なぜか小指をピンと立てながら――パンを掴み、小さく端を齧った。
「あはは! 先輩、なにその指! 紅茶飲むときみたいになってるよ!」
「えっ? ……あ、うぅ……癖なんです! 笑わないでください!」
肉汁とケチャップの濃い味が口に広がる。普段の学園の食事では味わえない、少し背徳的で、自由な味。
「……ん。……美味しい、です」
「でしょー先輩! コーラで流し込むともっと最高だよ!」
「もう、グリーンちゃんったら……」
呆れながらも、ローリンの表情からは出発時の硬さが消えていた。
狭い車内でおしゃべりしながら、同じジャンクフードを食べる。そんな些細な「非日常」が、彼女の緊張を解きほぐしていく。
◆東への車窓
腹ごしらえを済ませ、再び走り出したワゴンの窓から、日本一の山が姿を現した。
「わ! 見てあすかさん、ローリン先輩! 富士山! でっかーい!」
「グリーンちゃん、危ないから身を乗り出さないの。……ふふ、でも本当に綺麗ですね」
ローリンが眩しそうに窓の外を見上げる。
俺はハンドルを握りながら、チラリと横顔を盗み見た。
グリーンの終わらないお喋りと、先ほどのハンバーガーのおかげか、彼女の横顔は随分と毒気が抜かれたように柔らかくなっていた。
「……よかった。車にして正解だったな」
「え? 何か言いましたか、あすかさん?」
「いや。……長旅だが、疲れはないか?」
俺の問いに、ローリンは膝の上の地図を撫でながら、穏やかに首を振った。
「いいえ。……正直、少し怖かったんです。あの場所に戻るのが。また、あの日のような灰色の景色が見えるんじゃないかって」
彼女の言葉に、一瞬だけ車内の空気が凪ぐ。
だが、それを許さない声が後ろから飛んできた。
「大丈夫だって先輩! 今回はアタシがいるし! アタシが勝って、先輩も勝って、東京レース場をルミナスの色に染め変えちゃうんだから!」
「もう……。グリーンちゃんには敵いませんね」
ローリンはくすりと笑い、俺に向かって悪戯っぽく微笑んだ。
「あすかさんの狙い通りですね。こんなに賑やかだと、不安になる暇もありません」
「……参ったな」
「ふふ。私のトレーナーさんが考えていることくらい、分かりますよ」
車内には、ケチャップの甘い残り香と、ラジオのノイズ、そして優しい信頼の空気が満ちていた。
チームの稼ぎで買ったこの車は、単なる移動手段じゃない。俺たちを守る「城」だ。
多摩川を越え、東京の景色が近づく。
助手席の淑女は、もう過去の亡霊に怯えてはいなかった。
後部座席の天才少女は、戦場を前にしても無邪気なままだ。
俺はアクセルを踏み込む。
さあ、乗り込もう。俺たちのやり方で、東のターフを制圧しに。