ウマ娘競バ史   作:geko

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第52話:淑女の再起 ※エプソムカップ

 5月2週、土曜日。

 前日に降った雨も上がり、東京レース場は初夏の陽気に包まれていた。

 この日のメインイベント、エプソムカップ。

 皐月賞以来の関東遠征となるオペラローリンを一目見ようと、パドックには多くのファンが詰めかけていた。

 

 パドックの隅。俺はローリンのシューズの紐を締め直しながら、最後の指示を送った。

 

「今日は運も味方したな。絶好の一番枠だ」

 

 東京の芝1800メートルは、スタート直後にカーブがあるため、外枠は距離ロスが生じやすい。対して内枠は、最短距離を確保できる特等席だ。

 俺は立ち上がり、彼女の肩をポンと叩いた。

 

「せっかくだ、有効に使わせてもらおう。……インを突いて走ろう」

 

 俺の言葉に、ローリンは小さく頷いた。その表情は、気負いすぎず、静かに澄んでいた。

 

「ラチ沿いをなぞるように、息を潜めろ――ということですね」

 

「ああ。外を回す必要はない。最短距離を走って脚を溜めろ。……直線の長い東京なら、焦らなくても前は開く」

 

「ふふ。分かりました。……一番近道を、誰よりも優雅に駆け抜けてきますね」

 

 彼女は控えめに微笑むと、ターフへと向かった。

 その背中に、大阪杯での敗北を引きずっているような弱さは微塵もなかった。

 

◆エプソムカップ(GⅢ・東京芝1800m)

 

 ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

 好スタートを切ったローリンは、無理にハナを奪うことはせず、自然体で中団の最内へと滑り込んだ。

 

 すぐ右側には、白い鉄柵(ラチ)。

 肌が擦れるのではないかというほどの至近距離を、彼女は淡々と追走していく。

 外側では、2番人気のヤシマライデンや他のウマ娘たちが位置取りに脚を使い、激しく火花を散らしている。

 だが、ローリンだけは無風地帯にいた。

 聞こえるのは、自分の蹄音と風の音だけ。

 

「……完璧だ」

 

 スタンドで見守る俺の目には、彼女のスタミナがほとんど減っていないのが見えていた。

 無駄を極限まで削ぎ落とした、エコノミーな走行。

 彼女は力を蓄えたまま、東京名物の長い直線へと向かう。

 

 第4コーナーを回り、直線へ。

 目の前に広がる526メートルの滑走路。

 直線の広さとバ場の良さを求め、ライバルたちが外へ外へと扇状に広がっていく。

 その喧騒を他所に、ローリンの視線だけは、ぽっかりと空いた内側の『静寂』を捉えていた。

 

 ――ここです。

 

 迷いはない。

 彼女は白塗りのラチを擦るほどのギリギリのコースへ、一本の針を通すように滑り込んだ。

 ラチに触れれば、終わりだ。一歩ズレればバランスを崩し、すべてが水泡に帰す危険地帯。

 だが、彼女は恐れない。

 

 解き放たれた末脚が、一気に炸裂する。

 東京名物、心臓破りの「だんだら坂」を、まるで舞踏会の階段でも登るかのように軽やかに駆け上がると、そこからは独壇場だった。

 

 俺の目には、彼女が放つ真珠の光が、一本の細く鋭いレーザーのように収束し、ゴール板まで一直線に伸びていくのが見えていた。

 

 一完歩ごとに後続が千切れていく。

 追いすがろうとするヤシマライデンも、今日ばかりは相手が悪すぎた。

 

「強い! オペラローリン、完全に抜け出した! 誰も寄せ付けない!」

 実況の声が上ずる。

 

 彼女はただ、風のように駆け抜ける。

 ゴール板を通過した瞬間、2着との差は決定的な4バ身。

 タイムは1分48秒8。文句なしの圧勝だった。

 

◆次へのバトン

 

「……ハァ、ハァ……。お疲れ様です、あすかさん」

 

 検量室前に戻ってきたローリンは、額に珠のような汗を浮かべ、小さく肩で息をしていた。

 4バ身差の圧勝とはいえ、やはりそこは勝負の世界。全力を出し切った紅潮が、白い肌に差している。

 けれど、その立ち振る舞いからは、勝者としての気品が微塵も損なわれていない。

 

「完璧だったな、ローリン。最短距離を突き抜ける、お手本みたいな走りだった」

 

「はい。……ふぅ。これで少しは、大阪杯の借りを返せたでしょうか?」

 

「ああ。お釣りが出るくらいだ」

 

 俺がタオルを渡しながら笑いかけると、彼女は汗を拭いながら嬉しそうに目を細めた。

 そして、ふとスタンドの上の方――関係者席があるあたりを見上げる。

 

「それに……あそこで見ているグリーンちゃんに、少しは先輩らしい背中、見せられたと思いますから」

 

 言葉じゃなく走りで示した。

 これで胸を張って、次のバトンを渡せる。

 

 さあ、次はチーム・ルミナスの末っ子、グリーンの番だ。

 常識破りのマイル挑戦。――その“正解”を、日曜日の府中で証明しに行く。

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