5月2週、土曜日。
前日に降った雨も上がり、東京レース場は初夏の陽気に包まれていた。
この日のメインイベント、エプソムカップ。
皐月賞以来の関東遠征となるオペラローリンを一目見ようと、パドックには多くのファンが詰めかけていた。
パドックの隅。俺はローリンのシューズの紐を締め直しながら、最後の指示を送った。
「今日は運も味方したな。絶好の一番枠だ」
東京の芝1800メートルは、スタート直後にカーブがあるため、外枠は距離ロスが生じやすい。対して内枠は、最短距離を確保できる特等席だ。
俺は立ち上がり、彼女の肩をポンと叩いた。
「せっかくだ、有効に使わせてもらおう。……インを突いて走ろう」
俺の言葉に、ローリンは小さく頷いた。その表情は、気負いすぎず、静かに澄んでいた。
「ラチ沿いをなぞるように、息を潜めろ――ということですね」
「ああ。外を回す必要はない。最短距離を走って脚を溜めろ。……直線の長い東京なら、焦らなくても前は開く」
「ふふ。分かりました。……一番近道を、誰よりも優雅に駆け抜けてきますね」
彼女は控えめに微笑むと、ターフへと向かった。
その背中に、大阪杯での敗北を引きずっているような弱さは微塵もなかった。
◆エプソムカップ(GⅢ・東京芝1800m)
ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。
好スタートを切ったローリンは、無理にハナを奪うことはせず、自然体で中団の最内へと滑り込んだ。
すぐ右側には、白い鉄柵(ラチ)。
肌が擦れるのではないかというほどの至近距離を、彼女は淡々と追走していく。
外側では、2番人気のヤシマライデンや他のウマ娘たちが位置取りに脚を使い、激しく火花を散らしている。
だが、ローリンだけは無風地帯にいた。
聞こえるのは、自分の蹄音と風の音だけ。
「……完璧だ」
スタンドで見守る俺の目には、彼女のスタミナがほとんど減っていないのが見えていた。
無駄を極限まで削ぎ落とした、エコノミーな走行。
彼女は力を蓄えたまま、東京名物の長い直線へと向かう。
第4コーナーを回り、直線へ。
目の前に広がる526メートルの滑走路。
直線の広さとバ場の良さを求め、ライバルたちが外へ外へと扇状に広がっていく。
その喧騒を他所に、ローリンの視線だけは、ぽっかりと空いた内側の『静寂』を捉えていた。
――ここです。
迷いはない。
彼女は白塗りのラチを擦るほどのギリギリのコースへ、一本の針を通すように滑り込んだ。
ラチに触れれば、終わりだ。一歩ズレればバランスを崩し、すべてが水泡に帰す危険地帯。
だが、彼女は恐れない。
解き放たれた末脚が、一気に炸裂する。
東京名物、心臓破りの「だんだら坂」を、まるで舞踏会の階段でも登るかのように軽やかに駆け上がると、そこからは独壇場だった。
俺の目には、彼女が放つ真珠の光が、一本の細く鋭いレーザーのように収束し、ゴール板まで一直線に伸びていくのが見えていた。
一完歩ごとに後続が千切れていく。
追いすがろうとするヤシマライデンも、今日ばかりは相手が悪すぎた。
「強い! オペラローリン、完全に抜け出した! 誰も寄せ付けない!」
実況の声が上ずる。
彼女はただ、風のように駆け抜ける。
ゴール板を通過した瞬間、2着との差は決定的な4バ身。
タイムは1分48秒8。文句なしの圧勝だった。
◆次へのバトン
「……ハァ、ハァ……。お疲れ様です、あすかさん」
検量室前に戻ってきたローリンは、額に珠のような汗を浮かべ、小さく肩で息をしていた。
4バ身差の圧勝とはいえ、やはりそこは勝負の世界。全力を出し切った紅潮が、白い肌に差している。
けれど、その立ち振る舞いからは、勝者としての気品が微塵も損なわれていない。
「完璧だったな、ローリン。最短距離を突き抜ける、お手本みたいな走りだった」
「はい。……ふぅ。これで少しは、大阪杯の借りを返せたでしょうか?」
「ああ。お釣りが出るくらいだ」
俺がタオルを渡しながら笑いかけると、彼女は汗を拭いながら嬉しそうに目を細めた。
そして、ふとスタンドの上の方――関係者席があるあたりを見上げる。
「それに……あそこで見ているグリーンちゃんに、少しは先輩らしい背中、見せられたと思いますから」
言葉じゃなく走りで示した。
これで胸を張って、次のバトンを渡せる。
さあ、次はチーム・ルミナスの末っ子、グリーンの番だ。
常識破りのマイル挑戦。――その“正解”を、日曜日の府中で証明しに行く。