5月2週、日曜日。
エプソムカップでのローリンの勝利から一夜明け、東京レース場の空気は一変していた。
GⅠ・NHKマイルカップ。
パドックに姿を現したグリーンに向けられたのは、歓声よりも遥かに大きく、鋭い野次だった。
「なんでオークスから逃げたんだ!」
「伝統を舐めるな!」
「俺たちの夢を返せ、この腰抜け!」
1970年代の競バファンにとって、ティアラ路線のウマ娘が適性を理由にその路線を降りることは、許しがたい背信行為だった。
容赦のない言葉の礫。鉄火場の殺気。
だが、当のグリーンはシューズのソールをトントンと地面に打ち付け、不敵な笑みを浮かべていた。
「……ねえ、あすかさん。外野、すっごくうるさいね」
「ああ。……怖いか?」
「ううん。ワクワクする」
彼女はパドックの柵越しに、殺気立つスタンドを見回し、挑発するように鼻で笑った。
「今からアタシの走りで、ぜーんぶ黙らせてくるね!」
◆NHKマイルカップ(GⅠ・東京芝1600m)
ファンファーレが鳴り響き、一瞬の静寂の後、ゲートが開かれた。
6番枠のグリーンは好スタートを切り、迷うことなく先頭を奪った。
セシルグラスやアグネスクロウといったライバルたちは、グリーンのスピードを警戒して無理に競りかけず、少し離れた位置で様子をうかがう構えだ。
――それが、致命的な油断だった。
(……おいおい。グリーン相手に、そんなに楽に先頭を走らせていいのか?)
スタンドで見守る俺は、ライバルたちの判断ミスに戦慄した。
グリーンは無理に飛ばしているのではない。自分のリズムで、極めてリラックスして走っている。
彼女の巡航速度は、他の子にとっての全力に近い。
だから、ライバルたちは錯覚する。ペースが速いと。
誰も彼女を突っつけない。誰も彼女の聖域に入れない。
グリーンはたっぷりと息を入れたまま、脚を温存して魔の第4コーナーへと入ってくる。
直線の入り口。
後続のウマ娘たちが「そろそろ捕まえよう」と動き出した瞬間、グリーンは既にその先へ行っていた。
「――置いてくよ」
短く呟き、溜めに溜めたエネルギーが爆発する。
逃げていた相手が、直線の坂下から一番鋭い脚を使うという理不尽。
綺麗な加速を見せた彼女は、一完歩ごとに後続を突き放していく。
「嘘だろ……!?」
「止まらない! キョウエイグリーン、止まらない!」
野次は消え失せ、悲鳴のような実況だけが響く。
追いすがる2着のアグネスリアルトに影すら踏ませない。
彼女は誰よりも速く、誰よりも自由に、マイルのターフを駆け抜けた。
タイムは1分35秒0。
2着に4バ身差をつける圧勝だった。
一瞬、東京レース場から音が消えた。
さっきまで彼女を罵っていた何万人もの観衆が、目の前の圧倒的な現実を処理しきれずに口を開けている。
その凍りついた空気こそが、彼女への最大の降伏宣言だった。
ゴール板を過ぎ、スピードを緩めたグリーンが、静まり返ったスタンドを見上げてニカッと笑った。
そして、あえて観客席の方へ耳を傾けるポーズを取る。
『どうしたの? 文句があるなら言ってみなよ』と言わんばかりに。
わっ、と遅れた歓声が爆発する。それは畏敬の念を含んだ、完全な白旗だった。
◆三つ目の勲章
検量室前。
戻ってきた彼女は、額に汗を浮かべながらも、どこか涼しい顔で――俺に向かって、指を3本立ててみせた。
「……これで三つ目、だね」
阪神JF、桜花賞に続く、三つ目のGⅠタイトル。
俺は彼女の頭を、くしゃくしゃになるまで撫で回した。
「ああ。お前が正しかった。……日本一のマイラーだ、お前は」
「えへへ。でしょ? だから言ったじゃん、アタシの選んだ道が正解だって!」
オークスに行かなかったことを責めていた者たちも、この走りを見せられては、もう何も言えないだろう。
俺の胸の奥に刺さっていた棘みたいな雑音が、今、やっと抜けていくのが分かった。
「さあ、あすかさん! アタシ頑張ったから、ご褒美に美味しいもの食べに行こ!」
重圧から解放された彼女は、いつもの無邪気な末っ子に戻っていた。
激闘の春が終わる。
次なる目標は、秋の紫苑ステークス。そして最後の一冠、秋華賞へ。
夏の間、彼女は8週間の休養に入り、心と体を癒やすこととなる。
こうして、チーム・ルミナスの激動の東京遠征は、二つの勝利と共に幕を下ろした。