5月5週。
東京遠征の興奮も冷めやらぬ中、トレーナー室のデスクには、夏のグランプリ・宝塚記念のファン投票最終結果が届いていた。
そのリストを見ながら、俺は複雑な笑みを浮かべた。
「……すごいな、グリーンは。休養中だってのに3位か」
3位:キョウエイグリーン(173,900票)
NHKマイルカップでの鮮烈な逃走劇、そして古い常識を覆したカリスマ性は、ファンの心に強烈なインパクトを残したようだ。
まだクラシック級の少女が、歴戦のシニア級を抑えてのベスト3入り。これはもう、社会現象と言っていい。
そして、ダートの女王であるタイフウも8位(108,473票)にランクインしている。
「へっ、物好きな連中だねえ。あたしが芝なんて走るわけないのにさ」
ソファで寛ぐタイフウが、嬉しさを隠すようにぶっきらぼうに言う。
グリーンは既に秋に向けて休養に入っており、タイフウもダートに専念するため回避だ。
問題は――このリストの15位にある名前だ。
15位:オペラローリン(79,522票)
俺は給湯室で紅茶を淹れているローリンに声をかけた。
「ローリン。……ちょっといいか」
俺が示した投票結果を見て、ローリンは目を見開いた。
「私が……15位、ですか?」
「ああ。金鯱賞の執念、エプソムカップの鮮やかさ。その走りが評価されたんだろう。『79,522票』という声が、お前が夢の舞台で走る姿を見たいと言ってくれている。……それに、これを見てくれ」
俺はデスクの引き出しから、一通の封筒を取り出した。
拙い字で『ローリンちゃんへ』と書かれた、ファンレターだ。
「投票用紙の備考欄に書いてあったそうだ。『金鯱賞の走りを見て勇気をもらいました。夢の舞台で走る姿が見たいです』……とな」
ローリンはその手紙を大切そうに受け取ると、愛おしそうに胸に抱いた。
泥にまみれてもがいていた日々を思えば、これは光栄なんて言葉じゃ足りないほどの勲章だ。
「それで、相談だ。……ローリンはこの宝塚記念、出たいか?」
俺はあえて、選択肢を彼女に委ねることにした。
そして、トレーナーとしての「本音」と「計画」も包み隠さず伝える。
「正直に言うぞ。俺の中での、今年後半のお前の最大目標は……11月のマイルチャンピオンシップだ」
「マイルチャンピオンシップ、ですか」
「ああ。エプソムカップで見せた通り、お前の適正距離は1600から2000だ。特にマイルでの切れ味はGⅠ級だと確信している。……だから、無理に2200メートルの宝塚記念を使う必要はない」
俺はそこで言葉を切り、リストの最上段を指差した。
1位:ベルワイド(412,752票)
「それに、ここには『彼女』がいる。大阪杯でお前に土をつけ、その後、天皇賞(春)をも制した春の絶対王者だ。……消耗戦になればなるほど伸びるタイプだ。正直、勝率は低い」
ローリンは、湯気の立つ紅茶のカップを見つめながら沈黙した。
俺のプランに従うなら、秋のマイル戦線へ向けて力を付けるのが正解だ。
勝てる確率の高い道を選ぶこと。それが彼女を傷つけないための最善策でもある。
だが、彼女は顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「あすかさん。……私、出たいです」
その瞳には、かつてのような迷いはなかった。
「マイルCSという目標をくださって、ありがとうございます。あすかさんが私の未来を真剣に考えてくださっていること、とても嬉しいです」
彼女は凛とした声で続ける。
「でも、79,522人もの方が、私に夢を託してくれました。……だから、私は――応えたいんです」
一呼吸置いて、彼女は静かに告げた。
「この宝塚記念は、選ばれた者だけが立てる夢の劇場(オペラハウス)です。観客が呼んでくださっているのに、主役が逃げるわけにはいきません」
「ローリン……」
「それに、ベルワイドさんに背を向けたままで、秋に胸を張って『私が勝者です』なんて言えませんから」
大阪杯での完敗。あの背中の遠さを、彼女は誰よりも知っている。
知っているからこそ、挑みたいのだ。
「勝ちたいです。……いいえ、勝てなくても、今の私がどこまで通用するのか。あすかさんと一緒に、確かめたいんです」
その言葉を聞いて、俺は思わず笑みをこぼした。
本当に、強くなった。
エプソムカップでの勝利が、そして何よりファンの声が、彼女に「挑む勇気」を与えたのだ。
「……分かった。予定変更だ」
俺は手元のスケジュール帳を書き換える。
「マイルCSへのローテーションは、俺が責任を持って修正する。……だからローリン、お前は遠慮なく挑んでこい。夢のグランプリへ」
「はい! ……よろしくお願いします、あすかさん!」
6月、仁川。
泥んこの真珠は、自らの意思で「最強」へのリベンジマッチを選び取った。
例年、宝塚記念の時期は雨が多い。
だが、泥にまみれる覚悟は、もうとっくにできている。