6月2週、日曜日。
梅雨前線の雨は細く、けれど執拗にターフを叩いていた。阪神レース場の芝はたっぷりと水を含み、歩くだけで靴底が吸われる不良バ場。
春の総決算、宝塚記念。
ファン投票で選ばれた精鋭18人が、同じターフに名を連ねる。
4番枠に入ったオペラローリンは、雨粒を睫毛に受けながらも瞬きひとつせず、スタンドを見上げていた。
ファン投票15位。79,522票の期待。
エプソムカップで復活の狼煙を上げたとはいえ、相手は現役最強クラスのウマ娘たち。
本来なら挑戦者の立場である彼女を、ファンがこの夢の舞台へと押し上げたのだ。
「ローリン、迷うな。やることは一つだ」
俺は送り出す直前、彼女の背中に声をかけた。
相手は春シニア三冠がかかる王者ベルワイドをはじめ、中長距離の猛者ばかり。まともにやり合えば、2200メートルという距離とスタミナ勝負に圧し潰される。
「内枠を引けたのはラッキーだ。スタートを決めて、インの最前列を奪え。距離不安をごまかすには、ラチ沿いの経済コースを死守するしかない」
「……はい。私の全てを賭けて、夢の続きをお見せします」
◆宝塚記念(GⅠ・阪神芝2200m)
ゲートが開いた瞬間、白い影が弾けた。
ローリンは抜群のスタートを切ると、迷いなくバ群の先頭へと躍り出る。
その瞬間、雨に煙るスタンドからどよめきと歓声が上がった。
『行った!』
『ローリンが先頭だ!』
俺の指示通り、最内のラチ沿いを確保。泥を被らない特等席。
彼女は確かに、グランプリの主役としてレースを牽引していた。
雨音の向こうで、スタンドが――味方になった気がした。
79,522人の声援が、彼女の背中を押している。
だが――誤算が生じた。
彼女の逃げを許さない影があった。ハーバーロイヤルやリキエイカンといった先行勢が、楽なペースでは行かせないと言わんばかりに早めに競りかけてきたのだ。
想定以上のハイペース。
水を含んだ重い芝が、足枷のようにローリンの細い脚から体力を削り取っていく。
俺の目には、ローリンの光が早くも細りはじめているのが見えた。
――まだ半分も走っていないのに、呼吸が追いついていない。
(……くっ、息が……入らない……!)
向こう正面。
先頭の景色は素晴らしい。けれど、背後から迫る17人の足音が、重低音のように彼女を圧迫する。
第4コーナー。直線。
――入った瞬間、壁だった。
「――っ!?」
脚が、鉛のように重い。
前に進もうとする意志を、乳酸が拒絶する。これが2200メートルの壁。
ラチ沿いで懸命に粘り込みを図る彼女の横を、スタミナを温存していた中・長距離の実力者たちが、風のように追い抜いていく。
外から飛んできたのは、白と緑の勝負服――メジロアサマの豪脚だ。
王者の風格すら漂わせる走りで、一瞬にして彼女を置き去りにする。
遠ざかる背中。夢が覚めていく。
結果は8着。
優勝したのは伏兵メジロアサマ。王者ベルワイドも激流に飲まれて6着に沈み、三冠の夢は雨と共に散った。
◆祭りのあと
レース後。
泥と雨でずぶ濡れになって戻ってきたローリンは、荒い息を整えながら、どこか憑き物が落ちたような、さっぱりとした表情をしていた。
「……負けてしまいました。さすがに、グランプリの壁は厚かったです」
「ああ。だが、見事な逃げだった。あのメンバー相手にハナを奪って、お前の存在感は十分に示せたはずだ。……スタンドの歓声、聞こえたろ?」
俺がタオルを渡すと、彼女はそれを被り、ふぅーっと長く息を吐いてから、少し照れくさそうに笑った。
「はい。……不思議ですね。悔しいはずなのに、胸がいっぱいなんです」
彼女はタオル越しに、まだ熱気の残るスタンドを見上げた。
「自分の足で、この特別な場所の先頭を走ることができた……。それだけで、もう」
結果は完敗かもしれない。
けれど、泥んこになってもがいていたかつての彼女が、GⅠの舞台で堂々とレースを引っ張った。
顔についた泥の跳ね返りさえ、今の彼女には美しい勲章に見えた。
「……楽しかったか?」
「はい! とても!」
彼女は即答し、雨に濡れた髪を払いながら、今日一番の笑顔を見せた。
「あすかさん、連れてきてくださってありがとうございました。……私、この日のことは一生忘れません」
「俺もだ。……さあ、帰ろうか。風邪を引く前に、温かい紅茶でも飲んで」
「ふふ、そうですね。由衣さんにお願いして、とびきり甘いのを淹れてもらいましょう」
春のグランプリが終わる。
勝敗を超えた充実感を胸に、俺たちは雨上がりの仁川を後にした。
その足取りは、来るべき夏、そして実りの秋に向けて、どこまでも軽やかだった。