ウマ娘競バ史   作:geko

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第55話:真珠の挑戦 ※宝塚記念

 6月2週、日曜日。

 梅雨前線の雨は細く、けれど執拗にターフを叩いていた。阪神レース場の芝はたっぷりと水を含み、歩くだけで靴底が吸われる不良バ場。

 春の総決算、宝塚記念。

 ファン投票で選ばれた精鋭18人が、同じターフに名を連ねる。

 

 4番枠に入ったオペラローリンは、雨粒を睫毛に受けながらも瞬きひとつせず、スタンドを見上げていた。

 

 ファン投票15位。79,522票の期待。

 エプソムカップで復活の狼煙を上げたとはいえ、相手は現役最強クラスのウマ娘たち。

 本来なら挑戦者の立場である彼女を、ファンがこの夢の舞台へと押し上げたのだ。

 

「ローリン、迷うな。やることは一つだ」

 

 俺は送り出す直前、彼女の背中に声をかけた。

 相手は春シニア三冠がかかる王者ベルワイドをはじめ、中長距離の猛者ばかり。まともにやり合えば、2200メートルという距離とスタミナ勝負に圧し潰される。

 

「内枠を引けたのはラッキーだ。スタートを決めて、インの最前列を奪え。距離不安をごまかすには、ラチ沿いの経済コースを死守するしかない」

 

「……はい。私の全てを賭けて、夢の続きをお見せします」

 

◆宝塚記念(GⅠ・阪神芝2200m)

 

 ゲートが開いた瞬間、白い影が弾けた。

 ローリンは抜群のスタートを切ると、迷いなくバ群の先頭へと躍り出る。

 その瞬間、雨に煙るスタンドからどよめきと歓声が上がった。

 

『行った!』

『ローリンが先頭だ!』

 

 俺の指示通り、最内のラチ沿いを確保。泥を被らない特等席。

 彼女は確かに、グランプリの主役としてレースを牽引していた。

 

 雨音の向こうで、スタンドが――味方になった気がした。

 79,522人の声援が、彼女の背中を押している。

 

 だが――誤算が生じた。

 彼女の逃げを許さない影があった。ハーバーロイヤルやリキエイカンといった先行勢が、楽なペースでは行かせないと言わんばかりに早めに競りかけてきたのだ。

 想定以上のハイペース。

 水を含んだ重い芝が、足枷のようにローリンの細い脚から体力を削り取っていく。

 

 俺の目には、ローリンの光が早くも細りはじめているのが見えた。

 ――まだ半分も走っていないのに、呼吸が追いついていない。

 

(……くっ、息が……入らない……!)

 

 向こう正面。

 先頭の景色は素晴らしい。けれど、背後から迫る17人の足音が、重低音のように彼女を圧迫する。

 

 第4コーナー。直線。

 ――入った瞬間、壁だった。

 

「――っ!?」

 

 脚が、鉛のように重い。

 前に進もうとする意志を、乳酸が拒絶する。これが2200メートルの壁。

 ラチ沿いで懸命に粘り込みを図る彼女の横を、スタミナを温存していた中・長距離の実力者たちが、風のように追い抜いていく。

 

 外から飛んできたのは、白と緑の勝負服――メジロアサマの豪脚だ。

 王者の風格すら漂わせる走りで、一瞬にして彼女を置き去りにする。

 遠ざかる背中。夢が覚めていく。

 

 結果は8着。

 優勝したのは伏兵メジロアサマ。王者ベルワイドも激流に飲まれて6着に沈み、三冠の夢は雨と共に散った。

 

◆祭りのあと

 

 レース後。

 泥と雨でずぶ濡れになって戻ってきたローリンは、荒い息を整えながら、どこか憑き物が落ちたような、さっぱりとした表情をしていた。

 

「……負けてしまいました。さすがに、グランプリの壁は厚かったです」

 

「ああ。だが、見事な逃げだった。あのメンバー相手にハナを奪って、お前の存在感は十分に示せたはずだ。……スタンドの歓声、聞こえたろ?」

 

 俺がタオルを渡すと、彼女はそれを被り、ふぅーっと長く息を吐いてから、少し照れくさそうに笑った。

 

「はい。……不思議ですね。悔しいはずなのに、胸がいっぱいなんです」

 

 彼女はタオル越しに、まだ熱気の残るスタンドを見上げた。

 

「自分の足で、この特別な場所の先頭を走ることができた……。それだけで、もう」

 

 結果は完敗かもしれない。

 けれど、泥んこになってもがいていたかつての彼女が、GⅠの舞台で堂々とレースを引っ張った。

 顔についた泥の跳ね返りさえ、今の彼女には美しい勲章に見えた。

 

「……楽しかったか?」

 

「はい! とても!」

 

 彼女は即答し、雨に濡れた髪を払いながら、今日一番の笑顔を見せた。

 

「あすかさん、連れてきてくださってありがとうございました。……私、この日のことは一生忘れません」

 

「俺もだ。……さあ、帰ろうか。風邪を引く前に、温かい紅茶でも飲んで」

 

「ふふ、そうですね。由衣さんにお願いして、とびきり甘いのを淹れてもらいましょう」

 

 春のグランプリが終わる。

 勝敗を超えた充実感を胸に、俺たちは雨上がりの仁川を後にした。

 その足取りは、来るべき夏、そして実りの秋に向けて、どこまでも軽やかだった。

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