7月1週。
春レースの全日程が終了し、トレセン学園栗東校は少し早めの夏休みムードに包まれ始めていた。
チーム・ルミナスの気配は、もうここにはない。
つい先週まで廊下を駆け抜けていたグリーンの笑い声も、タイフウの豪快な足音も、今は蝉の鳴き声に飲まれている。
グリーンは北の大地へ、タイフウも砂の季節を終えて休養へ。
主のいない机が並ぶトレーナー室は、いつもより広く、そして静かに感じられた。
だが、そこにはまだ、熱心に次走の計画を練る二人の姿があった。
「……本気なんだな、ローリン」
俺の問いかけに、ソファに座るオペラローリンは、手元の紅茶を一口飲んでから静かに頷いた。
「はい。宝塚記念で思い知らされましたから。……今の私には、のんびりと羽を休めている時間なんてありません」
彼女の視線は、ホワイトボードに書かれた『大目標:マイルCS』の文字に向けられている。
休んで整うほど、私はまだ強くない。彼女の瞳はそう語っていた。
「分かった。……じゃあ、改めてスケジュールを確認しよう」
彼女は背筋を伸ばし、俺が提示した夏のロードマップに目を向けた。
7月4週:関屋記念(GⅢ・新潟芝1600m)
9月1週:京成杯オータムハンデ(GⅢ・中山芝1600m)
「目標は、サマーマイルシリーズの優勝。……分かるな? 夏の一本勝負じゃない。二つとも好走して、初めて『シリーズ制覇』の権利が得られる」
真夏の連戦。
それは本来、秋を見据える有力ウマ娘が選ぶ道ではない。
「過酷だぞ? ただ走るだけでも体力を削られる時期だ」
「望むところです。……それに」
彼女はふわりと微笑むと、少し悪戯っぽい瞳で俺を見つめた。
「他の子たちがいない間、あすかさんを独り占めして特訓できるんですもの。……最高の夏休みだと思いませんか?」
◆陽炎の向こう側
数日後。栗東校の練習コースは、蜃気楼が立ちそうなほどの猛暑に見舞われていた。
容赦なく照りつける太陽。肌にまとわりつく湿気。蝉の声だけがうるさいほどに響く。
その中で、オペラローリンは黙々とラップを刻み続けていた。
「――ハァッ、ハァッ、……ッ!」
全身から汗が噴き出し、練習着が肌に張り付く。
白い肌が上気し、呼吸は限界に近い。それでも彼女は脚を止めない。
宝塚記念で突きつけられた底を、この夏の連戦で塗り替えるために。
「よし、そこまで! 上がれローリン!」
俺の指示で、彼女はスピードを緩め、よろめくように芝コースから戻ってきた。
俺はすぐに駆け寄り、用意していた氷水で濡らしたタオルを彼女の首筋に当てた。
「ひゃうっ……!?」
冷たさに彼女が可愛らしい悲鳴を上げ、華奢な肩をビクリと震わせる。
火照った肌に氷水が触れ、ジューッという音が聞こえてきそうなほどの熱気。
彼女は息を整える間もなく、壁を探すみたいに俺の腕へ体重を預けた。
「……あ、すまん。大丈夫か?」
「……平気、です。少し、くらっとしただけ……」
近い。
俺の腕に伝わってくるのは、体温というより、燃えるような熱そのものだ。
限界まで追い込んだ証拠。彼女は今、自身の殻を破ろうと必死にもがいている。
俺が汗を拭ってやると、彼女は乱れた呼吸のまま、潤んだ瞳で俺を見上げた。
「……ふふ。やっぱり、残って正解でした」
「こんなにキツイ練習をしておいてか?」
「はい。だって……あすかさんがずっと、私だけを見ていてくれますから」
彼女は俺の腕を掴む指に、ぎゅっと力を込めた。
「あすかさん。……夏の間も、よろしくお願いしますね」
その言葉は、まるで特別な約束のように響いた。
だが、俺たちは知っている。これから始まるのが、甘いバカンスなどではないことを。
……分かっている。
この連戦は、正解の形じゃない。
サマーマイルシリーズ。涼しい顔で休養しているライバルたちが秋に万全の状態で戻ってくる中、俺たちは身を削り、泥と汗にまみれて戦果をもぎ取らなければならない。
一歩間違えれば、彼女の競走寿命さえ縮めかねない、茨の道。
それでも――彼女は選んだのだ。
俺は彼女の、熱を帯びた瞳を見つめ返し、強く頷いた。
蝉時雨が降り注ぐ中、泥んこの真珠と挑む、熱くて長い夏が幕を開ける。
目指すは越後のターフ。
関屋記念まで、あと三週間――この灼熱を、速さに変える。