7月4週、日曜日。
日本海から吹き付ける湿った熱風と、容赦なく照りつける太陽。
新潟レース場は、蜃気楼が揺らめき、景色が歪むほどの酷暑の中にあった。
サマーマイルシリーズ――俺たちにとっての初戦。
そしてシリーズ第2戦、関屋記念。
パドックの隅で、俺はオペラローリンに厳しい表情でコース図を示していた。
今回のレース、最大の敵はライバルではない。直線そのものだ。
「いいかローリン。新潟の外回りコース、その直線は659メートル。日本一長い。定石通りなら、後方で脚を溜めて、最後に爆発させる『追い込み』が有利なコースだ」
だが、と俺は続ける。
追い込みは、リスクも大きい。それに何より――
「お前の武器は、一撃の破壊じゃない。位置取りと持続力、その精度の高さで勝つスタイルだ」
俺の言葉に、彼女は真剣な眼差しで頷く。
「だからこそ、前目の好位置をキープして、残り400で早めに抜け出すしかない。……だが、見てみろ」
出走表には、同じような先行策を考えているであろうウマ娘の名前がずらりと並んでいた。
18人のフルゲート。位置取り争いは激化する。
「周りは敵だらけだ。埋もれるなよ。……落ち着いて、自分のスペースと仕掛けのタイミングを探るんだ」
「はい。……あの長い直線の向こう側まで、あすかさんを連れて行ってみせます」
彼女は汗を拭い、覚悟を決めた瞳で頷いた。5番人気という評価を覆すため、真珠色の髪をなびかせ、陽炎の立つターフへ向かう。
◆関屋記念(GⅢ・新潟芝1600m)
ファンファーレが空気を震わせ、ゲートが開いた。
ローリンはまずまずのスタートを切り、作戦通り中団の前目、好位のポジションを確保する。
ここまでは完璧だった。
だが、その周囲をすぐにライバルたちが取り囲んだ。
内にはスリーリバー、外にはダイナメッセージ。前にはピンクダンス。
息苦しいほどの密集地帯。
(……くっ、動きづらい……熱が、抜けません……!)
ローリンの視界には、常に誰かの背中があった。熱気が籠もるバ群の中、隊列は崩れないまま、勝負の第4コーナーを迎える。
直線を向き、広大なコースが目の前に広がる。
日本一広いコース。だというのに――。
各ウマ娘が一斉にスパートの体勢に入る。密集した塊が崩れない。
ここだ。ここで抜け出せば勝てる。
ローリンは、内に切り込もうと前のウマ娘とのわずかな隙間を狙った。
――しかし。
「……っ!? 前が、止まった!?」
狙っていたスペースに、失速したウマ娘が壁のように立ちはだかる。
内はラチ、外は後続の肩がぶつかる距離。逃げ場がない。
“止まった一枚”が挟まった瞬間、隊列そのものが壁に変わった。
袋小路。
目の前には659メートルの広大な滑走路があるのに、彼女が走るための隙間は、30センチも残されていなかった。
ローリンがもがいている間に、渋滞とは無縁の大外から豪脚を繰り出した7番人気、トウショウピットが一気にバ群を飲み込んでいく。
その背中は、あまりに遠かった。
「……まだです! 終わってません!」
ようやく外への進路をこじ開けたローリンが、遅すぎるスパートをかける。
トップスピードに乗った時には、すでに勝負は決していた。
だが、サマーマイルのポイントを一つでも稼がなければ、この灼熱の夏が無駄になる。
周囲のウマ娘たちが猛暑に体力を奪われ、脚色を鈍らせていく。
その中で、ローリンの脚だけは止まらなかった。
呼吸が乱れても、フォームだけは崩さない。乳酸で脚が焼けても、腕だけは振り切る。
栗東での地獄の特訓が、無意識に彼女の体を突き動かしていた。
彼女は歯を食いしばり、泥臭く脚を伸ばした。
一人、また一人とかわしていく。
ゴール板の直前、ダイホウゲツとの競り合いをクビ差で制し、なんとか入線した。
結果は5着。
勝ったトウショウピットからは離されたが、最低限の掲示板と、貴重なシリーズポイントは死守した。
◆
検量室前。
戻ってきたローリンは、悔しさと申し訳なさで顔を歪めていた。
「……すみません、あすかさん。位置取りは良かったはずなのに……肝心なところで、前が……」
「気にするな。あれは不可抗力の事故だ。……むしろ、あの絶望的な状況からよく5着まで持ってきたな」
俺は彼女の肩に手を置き、労った。
完全に包まれて二桁着順に沈んでもおかしくない展開で、最後まで心を折らずにポイントをもぎ取ったのは、まぎれもなく夏の特訓の成果だ。
「首の皮一枚だが、まだシリーズ優勝の可能性は消えてない」
「……はい。次は、絶対に詰まらせたりしません」
彼女は涙をこらえ、強く前を向いた。
「次こそは……私の進路を、最初から用意してみせます」
サマーマイルシリーズ最終戦、京成杯オータムハンデ。
場所は中山。トリッキーなコースで、今度こそ完璧なエスコートを見せるために。
俺たちの夏合宿は、まだ終わらない。