8月1週。
夏真っ盛りのこの時期、トレセン学園は新たな才能の発掘――「メイクデビュー」の話題で持ちきりになっていた。
あちこちで新人ウマ娘とトレーナーが視察や面談を行っている中、チーム・ルミナスのトレーナー室では、由衣さんが冷たい麦茶を差し出し、ふっと息をついた。
そのまま穏やかに――核心を突く。
「……ところで、あすかさん。今年のスカウトのご予定は?」
彼女の視線は、俺の手元にある新人資料に向けられている。
この春、ウチのチームはGⅠ・重賞戦線で華々しい結果を残した。その影響力は大きく、多くの新人ウマ娘から「チーム・ルミナスに入りたい」という打診が来ているのは事実だ。
だが、今のチームは少数精鋭。
ローリン、タイフウ、グリーン。個性の塊のような三人を抱え、俺と由衣さんの二人三脚で、ようやく回しているのが現状だ。ここにもう一人加えるとなれば、指導の密度が薄まるリスクもある。
「……痛いところを突きますね。正直、今の三人を見るので手一杯ですよ」
俺は苦笑しながら、資料の一枚をテーブルに滑らせた。
「だから、自分からスカウトに動くつもりはなかったんです」
俺は一拍置いて、続けた。
「……向こうから、“逆スカウト”されるまでは」
「あら。……この子は」
由衣さんが写真を見て、少し驚いたように眉を上げた。
そこに写っていたのは、銀縁の眼鏡の奥に気の強そうな瞳を宿した、どこか見覚えのある少女だった。
「彼女の名前は、ナスノチグサ。……あのナスノカオリの、二つ下の妹ですよ」
ナスノカオリ。
その名を知らぬ者はいない。桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯、そして安田記念。
マイルから中距離まで、条件を選ばず圧倒する――現役屈指の「完成形」だ。
先日の関屋記念でも、ローリンの前で貫禄の2着に入ったばかり。まさに「名門・ナスノ家」の象徴だ。
「彼女、俺のところへ乗り込んできて、開口一番こう言ったんです。『わたくしのトレーナーになっていただけませんか』、って」
「ふふ、それはまた……情熱的なプロポーズですね」
「理由は明白です。『お姉ちゃんを超えたいから』。……一年目から常識外れなローテで結果を出したウチのチームなら、姉の敷いたレールとは違う道で勝てると踏んだんでしょう」
名門の血筋、偉大すぎる姉。
そのコンプレックスと反骨心は、ハングリー精神という意味では申し分ない。
だが、単に速いだけではチームには入れられない。既存のメンバーと切磋琢磨できるか、そして俺が彼女の「人生」を背負いきれるか。
「……で、お返事は?」
「『デビュー戦を見てから決める』と伝えました。口だけなのか、本当に姉を超える器があるのか。……それを見極めてからです」
俺の答えに、由衣さんは「なるほど」と微笑み、麦茶を飲み干した。
「あすかさんらしいです。……もし彼女が本物なら、私は構いませんよ? 四人分のお弁当を作るのも、賑やかで楽しそうですし」
「……由衣さんには頭が上がりませんね」
俺は手元の資料を閉じる。
ナスノチグサ。
彼女がいつ、どの時期にベールを脱ぐのかはまだ分からない。
だが、その名前は俺の頭の片隅に、小さくとも無視できない“引っかかり”として残り続けていた。
◆回想、雨音と論理の契約
話は数週間前、梅雨明け前の湿った午後へと遡る。
人気のないトレセン学園の図書館は、空調の音さえ遠かった。
窓を打つ雨だけが、一定のリズムで正しさを刻んでいる。
その窓際で、俺は次のレースの想定表を睨んでいた。
「……神楽坂 飛鳥トレーナーですね?」
ふと、凛とした声が落ちてきた。
顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
トレセン学園の制服に、カーディガン。手には難解な哲学書が抱えられている。
特徴的なのは、その銀縁の眼鏡だ。レンズの奥にある瞳は、俺という人間を値踏みするように冷ややかに光っている。
「ああ、そうだが。……君は?」
「ナスノチグサ。……ナスノカオリの妹、と言った方が通りが良いでしょうか」
彼女は当然のように、向かいの席へ腰を下ろした。
名門・ナスノ家の令嬢。その名前は知っていたが、実物を見るのは初めてだ。姉のカオリが華やかな「太陽」なら、彼女は研ぎ澄まされた「氷」だ。
「単刀直入に申し上げます。……わたくしを、貴方のチームに入れていただけませんか?」
あまりに唐突で、ビジネスライクな申し出だった。
俺は少し驚きつつも、冷静に問い返す。
「……光栄な話だが、君のような名門のウマ娘なら、もっと設備の整った名門チーム……それこそ『リギル』のような場所だって狙えるはずだぞ?」
「ええ。確かに名門チームの指導は優秀です。……『常識的な』正解を導き出すことに関しては」
チグサは少し皮肉っぽく口元を緩め、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
レンズが白く光り、俺を射抜くような視線を隠す。
「姉様――ナスノカオリは、既存の競バ理論における『完成形』です。血統、体格、レース運び。全てが教科書通りに美しく、強い。……普通の優秀なトレーナーが育てれば、わたくしは『姉様の劣化コピー』にしかなれないでしょう」
彼女の言葉には、感情的な嫉妬よりも、冷徹な分析結果としての諦観が混じっていた。
姉と同じ土俵、同じ理論で戦っても勝てない。それは彼女の中で証明済みの数式なのだ。
「脳内で、千のパターンを走らせました。どのチームに入っても、姉様を超える未来は出ない。……ただ一つ、貴方のチームを除いて」
「ウチを?」
「はい。キョウエイグリーン先輩のNHKマイルカップ、オペラローリン先輩の宝塚記念挑戦……。貴方の采配は、統計やセオリーを無視しています」
彼女は俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「……いわば、私の計算式に存在しない“例外(エラー)”です」
「例外……」
「完成された数式を崩せるのは、計算外の変数だけ。……わたくしが姉様という完璧な論理を打倒するためには、貴方という『変数』が必要だと判断しました」
熱烈なラブコールではない。
これは、勝利という目的を達成するための、冷徹な“業務提携”のオファーだ。
「好きだから」でも「信頼しているから」でもなく、「使えるから」選んだ。その潔さが、逆に俺の興味を惹いた。
「……なるほど。俺を利用して、姉を超える計算式を完成させたいわけか」
「ご理解が早くて助かります。……もちろん、貴方にもメリットはあります。わたくしのポテンシャルは、姉様にも劣らないと自負しておりますから」
彼女は立ち上がり、机の上の本を抱える。
「お返事は今すぐでなくて構いません。……わたくしのデビュー戦で、その『証明』をお見せします。それをご覧になってから、契約書にサインをするか決めてください」
一礼し、彼女は足音もなく図書館を去っていった。
残されたのは、雨音と、彼女が置いていった微かな緊張感だけ。
(……ナスノチグサ、か)
感情ではなく理屈で走る、策士の少女。
俺はもう、彼女の掌の上で“計算させられている”。
そう気づいてなお――興味が消えなかった。