ウマ娘競バ史   作:geko

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第59話:真夏の方程式、四人目の例外

 8月1週。

 夏真っ盛りのこの時期、トレセン学園は新たな才能の発掘――「メイクデビュー」の話題で持ちきりになっていた。

 あちこちで新人ウマ娘とトレーナーが視察や面談を行っている中、チーム・ルミナスのトレーナー室では、由衣さんが冷たい麦茶を差し出し、ふっと息をついた。

 そのまま穏やかに――核心を突く。

 

「……ところで、あすかさん。今年のスカウトのご予定は?」

 

 彼女の視線は、俺の手元にある新人資料に向けられている。

 この春、ウチのチームはGⅠ・重賞戦線で華々しい結果を残した。その影響力は大きく、多くの新人ウマ娘から「チーム・ルミナスに入りたい」という打診が来ているのは事実だ。

 

 だが、今のチームは少数精鋭。

 ローリン、タイフウ、グリーン。個性の塊のような三人を抱え、俺と由衣さんの二人三脚で、ようやく回しているのが現状だ。ここにもう一人加えるとなれば、指導の密度が薄まるリスクもある。

 

「……痛いところを突きますね。正直、今の三人を見るので手一杯ですよ」

 

 俺は苦笑しながら、資料の一枚をテーブルに滑らせた。

 

「だから、自分からスカウトに動くつもりはなかったんです」

 

 俺は一拍置いて、続けた。

 

「……向こうから、“逆スカウト”されるまでは」

 

「あら。……この子は」

 

 由衣さんが写真を見て、少し驚いたように眉を上げた。

 そこに写っていたのは、銀縁の眼鏡の奥に気の強そうな瞳を宿した、どこか見覚えのある少女だった。

 

「彼女の名前は、ナスノチグサ。……あのナスノカオリの、二つ下の妹ですよ」

 

 ナスノカオリ。

 その名を知らぬ者はいない。桜花賞、秋華賞、エリザベス女王杯、そして安田記念。

 マイルから中距離まで、条件を選ばず圧倒する――現役屈指の「完成形」だ。

 先日の関屋記念でも、ローリンの前で貫禄の2着に入ったばかり。まさに「名門・ナスノ家」の象徴だ。

 

「彼女、俺のところへ乗り込んできて、開口一番こう言ったんです。『わたくしのトレーナーになっていただけませんか』、って」

 

「ふふ、それはまた……情熱的なプロポーズですね」

 

「理由は明白です。『お姉ちゃんを超えたいから』。……一年目から常識外れなローテで結果を出したウチのチームなら、姉の敷いたレールとは違う道で勝てると踏んだんでしょう」

 

 名門の血筋、偉大すぎる姉。

 そのコンプレックスと反骨心は、ハングリー精神という意味では申し分ない。

 だが、単に速いだけではチームには入れられない。既存のメンバーと切磋琢磨できるか、そして俺が彼女の「人生」を背負いきれるか。

 

「……で、お返事は?」

 

「『デビュー戦を見てから決める』と伝えました。口だけなのか、本当に姉を超える器があるのか。……それを見極めてからです」

 

 俺の答えに、由衣さんは「なるほど」と微笑み、麦茶を飲み干した。

 

「あすかさんらしいです。……もし彼女が本物なら、私は構いませんよ? 四人分のお弁当を作るのも、賑やかで楽しそうですし」

 

「……由衣さんには頭が上がりませんね」

 

 俺は手元の資料を閉じる。

 ナスノチグサ。 

 彼女がいつ、どの時期にベールを脱ぐのかはまだ分からない。

 だが、その名前は俺の頭の片隅に、小さくとも無視できない“引っかかり”として残り続けていた。

 

◆回想、雨音と論理の契約

 

 話は数週間前、梅雨明け前の湿った午後へと遡る。

 人気のないトレセン学園の図書館は、空調の音さえ遠かった。

 窓を打つ雨だけが、一定のリズムで正しさを刻んでいる。

 その窓際で、俺は次のレースの想定表を睨んでいた。

 

「……神楽坂 飛鳥トレーナーですね?」

 

 ふと、凛とした声が落ちてきた。

 顔を上げると、そこには一人の少女が立っていた。

 トレセン学園の制服に、カーディガン。手には難解な哲学書が抱えられている。

 特徴的なのは、その銀縁の眼鏡だ。レンズの奥にある瞳は、俺という人間を値踏みするように冷ややかに光っている。

 

「ああ、そうだが。……君は?」

 

「ナスノチグサ。……ナスノカオリの妹、と言った方が通りが良いでしょうか」

 

 彼女は当然のように、向かいの席へ腰を下ろした。

 名門・ナスノ家の令嬢。その名前は知っていたが、実物を見るのは初めてだ。姉のカオリが華やかな「太陽」なら、彼女は研ぎ澄まされた「氷」だ。

 

「単刀直入に申し上げます。……わたくしを、貴方のチームに入れていただけませんか?」

 

 あまりに唐突で、ビジネスライクな申し出だった。

 俺は少し驚きつつも、冷静に問い返す。

 

「……光栄な話だが、君のような名門のウマ娘なら、もっと設備の整った名門チーム……それこそ『リギル』のような場所だって狙えるはずだぞ?」

 

「ええ。確かに名門チームの指導は優秀です。……『常識的な』正解を導き出すことに関しては」

 

 チグサは少し皮肉っぽく口元を緩め、眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。

 レンズが白く光り、俺を射抜くような視線を隠す。

 

「姉様――ナスノカオリは、既存の競バ理論における『完成形』です。血統、体格、レース運び。全てが教科書通りに美しく、強い。……普通の優秀なトレーナーが育てれば、わたくしは『姉様の劣化コピー』にしかなれないでしょう」

 

 彼女の言葉には、感情的な嫉妬よりも、冷徹な分析結果としての諦観が混じっていた。

 姉と同じ土俵、同じ理論で戦っても勝てない。それは彼女の中で証明済みの数式なのだ。

 

「脳内で、千のパターンを走らせました。どのチームに入っても、姉様を超える未来は出ない。……ただ一つ、貴方のチームを除いて」

 

「ウチを?」

 

「はい。キョウエイグリーン先輩のNHKマイルカップ、オペラローリン先輩の宝塚記念挑戦……。貴方の采配は、統計やセオリーを無視しています」

 

 彼女は俺の目を真っ直ぐに見据えた。

 

「……いわば、私の計算式に存在しない“例外(エラー)”です」

 

「例外……」

 

「完成された数式を崩せるのは、計算外の変数だけ。……わたくしが姉様という完璧な論理を打倒するためには、貴方という『変数』が必要だと判断しました」

 

 熱烈なラブコールではない。

 これは、勝利という目的を達成するための、冷徹な“業務提携”のオファーだ。

 「好きだから」でも「信頼しているから」でもなく、「使えるから」選んだ。その潔さが、逆に俺の興味を惹いた。

 

「……なるほど。俺を利用して、姉を超える計算式を完成させたいわけか」

 

「ご理解が早くて助かります。……もちろん、貴方にもメリットはあります。わたくしのポテンシャルは、姉様にも劣らないと自負しておりますから」

 

 彼女は立ち上がり、机の上の本を抱える。

 

「お返事は今すぐでなくて構いません。……わたくしのデビュー戦で、その『証明』をお見せします。それをご覧になってから、契約書にサインをするか決めてください」

 

 一礼し、彼女は足音もなく図書館を去っていった。

 残されたのは、雨音と、彼女が置いていった微かな緊張感だけ。

 

(……ナスノチグサ、か)

 

 感情ではなく理屈で走る、策士の少女。

 俺はもう、彼女の掌の上で“計算させられている”。

 そう気づいてなお――興味が消えなかった。

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