ウマ娘競バ史   作:geko

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第6話:湯気の向こうの横顔

 1971年、2月。栗東の山は深い霧に沈み、朝夕の冷えは骨に触れた。

 中山の遠征と4着の激闘のあと、ローリンの細い身体には疲労が残っている。肉体だけじゃない。神経が、薄い紙みたいに擦り減っていた。

 

 俺の「目」には、ローリンの“音”が、まだ細く震えて見えた。

 だからこそ、必要なのは休息だけじゃない。もっと根源的な温め直しだ。

 

 練習終わりの夕暮れ。

 学園内の食堂は、育ち盛りの少女たちの喧騒で溢れかえっている。その熱気から逃げるように、俺は彼女を連れて、トレーナー室の片隅にある小さな自炊場へと向かった。

 裸電球がひとつ、心許なく揺れている。

 カチリ、と古いガスコンロに火を灯すと、狭い部屋に青い炎が浮かび上がった。

 ぷす、とガスの湿った匂いが一瞬だけ鼻を刺し、すぐに湯気の匂いへと変わっていく。

 

「……トレーナー、さん」

 

 パイプ椅子に腰を下ろしたローリンが、不安げに俺の背中を見つめている。

 真珠色の髪は、冬の湿気を吸って少しだけ重たげだ。

 

「今日は、俺が作る。……と言っても、簡単なものだけどな」

 

◆湯気の正解

 

 俺が作ったのは、細かく刻んだサツマイモと、少しの味噌。

 肉も油揚げもない。けれど、芋の甘みが溶け出した、あえて熱すぎない温度の汁物だった。

 熱さで誤魔化すんじゃなく、内側からゆっくりとほどける温度にした。

 

「……これ、だけですか?」

 

 差し出された椀を見て、ローリンが不思議そうに首を傾げる。

 それは不満じゃなく、俺の手を煩わせたことへの、どこか申し訳なさそうな声だった。

 

「ああ。今の君の身体には、これが一番いい。……周りの連中が見たら、栄養が足りないと怒鳴るだろうけどな」

 

 俺は苦笑いしながら、自分の分も隣に置いた。

 栄養学の教科書なら、回復のためにタンパク質を摂れと書くだろう。

 だが、俺の中にある経験則が告げている。

 教科書の正解は、時に弱った相手を追い詰める刃になる、と。

 

 俺の「目」には見えていた。

 今の彼女は、胃の奥が寒さで縮こまっている。呼吸も浅い。

 必要なのは、無理に押し込む栄養じゃなく、身体の内側から緊張をほどく「温度」だ。

 

 彼女は、おそるおそる椀を両手で包み込んだ。

 驚くほど白く、細い指先。その爪が、微かに震えている。

 

「いただきます……」

 

 一口、啜る。

 野菜の甘みが溶け出した温かな汁が、彼女の喉を通り、冷え切った内側に落ちていく。

 一瞬、彼女の肩から、張り詰めていた糸がふっと緩むのを、俺は見逃さなかった。

 こわばっていた呼吸がほどけて、白い頬にうっすら色が戻る。

 

「……ああ。なんだか、身体が『ありがとう』って言ってるみたいです」

 

 ふわりと、真珠色の前髪の奥で、彼女の瞳が潤む。

 

「中山では、ごめんなさい。……あんなに大きな声で応援してくれたのに、私、最後、抜かれちゃって……」

 

 箸を止め、彼女は膝の上で拳を握りしめた。

 あの4着という結果。それは彼女の中に、初めて悔しさという名の、確かなアスリートの魂を刻み込んでいた。

 

「謝らなくていい。……あの日、坂を登り切った君の脚は、誰よりも誇らしかった」

 

 俺がそう言って、彼女の手の上にそっと自分の手を重ねた。

 その瞬間だった。

 

 彼女は縋るように俺の掌に額を預け、そのままじっと動かなくなった。

 俺の指が、反射で少しだけ強張る。――けれど、離せなかった。

 

 濡れた前髪が指に触れて、そこだけが熱かった。

 伝わってくるのは、激しいレースを終えてなお冷めやらない、剥き出しの熱量と、依存に近い信頼。

 

(……ああ、そうか)

 

 移籍リストの備考欄には、『人懐っこく、従順なウマ娘』と書かれていた。

 前のトレーナーは、それを単なる性格だと思ったんだろう。

 けれど――いま俺の掌に額を預けて震えているのは、その「人懐っこさ」とは別の何かだ。

 これは、SOSだ。

 誰かに触れていないと、自分が消えてしまいそうな不安。

 たぶん――これが、彼女の生き残り方なんだろう。

 

 そう思った瞬間、背中が寒くなった。

 俺がこの温もりに慣れたら、彼女はもっと壊れる。――そんな予感がした。

 俺が手を離せば、また彼女は戻ってしまう。あの教室の冷えた闇に。

 

◆2月2週、京都・きさらぎ賞へ

 

 俺は空になった椀を置き、静かに告げた。

 

「次は、京都だ」

 

 俺の言葉に、彼女は顔を上げ、じっと俺を見つめた。

 

「遠征ってほどじゃない。知らない街で夜を越える必要もない。……今のこの『温度』を持ったまま、ちゃんと帰ってこれる距離だ」

 

 不安の波を小さくするための、関西圏での戦い。

 道中のアップダウンはあるが、最後の直線は平坦だ。

 中山の急坂を耐え抜いたパワーがあれば、淀の直線なら――最後まで脚を使い切れるはずだ。

 

 俺の「見る」ものと、彼女の「感じる」もの。その二つが噛み合えば、いまの俺たちには――まだ伸びしろがある。

 

「京都……淀。……私、今度は最後まで、トレーナーさんのこと待たせません」

 

 彼女は俺の手をぎゅっと握りしめ、椀に残った汁を最後の一滴まで、大切そうに飲み干した。

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