1971年、2月。栗東の山は深い霧に沈み、朝夕の冷えは骨に触れた。
中山の遠征と4着の激闘のあと、ローリンの細い身体には疲労が残っている。肉体だけじゃない。神経が、薄い紙みたいに擦り減っていた。
俺の「目」には、ローリンの“音”が、まだ細く震えて見えた。
だからこそ、必要なのは休息だけじゃない。もっと根源的な温め直しだ。
練習終わりの夕暮れ。
学園内の食堂は、育ち盛りの少女たちの喧騒で溢れかえっている。その熱気から逃げるように、俺は彼女を連れて、トレーナー室の片隅にある小さな自炊場へと向かった。
裸電球がひとつ、心許なく揺れている。
カチリ、と古いガスコンロに火を灯すと、狭い部屋に青い炎が浮かび上がった。
ぷす、とガスの湿った匂いが一瞬だけ鼻を刺し、すぐに湯気の匂いへと変わっていく。
「……トレーナー、さん」
パイプ椅子に腰を下ろしたローリンが、不安げに俺の背中を見つめている。
真珠色の髪は、冬の湿気を吸って少しだけ重たげだ。
「今日は、俺が作る。……と言っても、簡単なものだけどな」
◆湯気の正解
俺が作ったのは、細かく刻んだサツマイモと、少しの味噌。
肉も油揚げもない。けれど、芋の甘みが溶け出した、あえて熱すぎない温度の汁物だった。
熱さで誤魔化すんじゃなく、内側からゆっくりとほどける温度にした。
「……これ、だけですか?」
差し出された椀を見て、ローリンが不思議そうに首を傾げる。
それは不満じゃなく、俺の手を煩わせたことへの、どこか申し訳なさそうな声だった。
「ああ。今の君の身体には、これが一番いい。……周りの連中が見たら、栄養が足りないと怒鳴るだろうけどな」
俺は苦笑いしながら、自分の分も隣に置いた。
栄養学の教科書なら、回復のためにタンパク質を摂れと書くだろう。
だが、俺の中にある経験則が告げている。
教科書の正解は、時に弱った相手を追い詰める刃になる、と。
俺の「目」には見えていた。
今の彼女は、胃の奥が寒さで縮こまっている。呼吸も浅い。
必要なのは、無理に押し込む栄養じゃなく、身体の内側から緊張をほどく「温度」だ。
彼女は、おそるおそる椀を両手で包み込んだ。
驚くほど白く、細い指先。その爪が、微かに震えている。
「いただきます……」
一口、啜る。
野菜の甘みが溶け出した温かな汁が、彼女の喉を通り、冷え切った内側に落ちていく。
一瞬、彼女の肩から、張り詰めていた糸がふっと緩むのを、俺は見逃さなかった。
こわばっていた呼吸がほどけて、白い頬にうっすら色が戻る。
「……ああ。なんだか、身体が『ありがとう』って言ってるみたいです」
ふわりと、真珠色の前髪の奥で、彼女の瞳が潤む。
「中山では、ごめんなさい。……あんなに大きな声で応援してくれたのに、私、最後、抜かれちゃって……」
箸を止め、彼女は膝の上で拳を握りしめた。
あの4着という結果。それは彼女の中に、初めて悔しさという名の、確かなアスリートの魂を刻み込んでいた。
「謝らなくていい。……あの日、坂を登り切った君の脚は、誰よりも誇らしかった」
俺がそう言って、彼女の手の上にそっと自分の手を重ねた。
その瞬間だった。
彼女は縋るように俺の掌に額を預け、そのままじっと動かなくなった。
俺の指が、反射で少しだけ強張る。――けれど、離せなかった。
濡れた前髪が指に触れて、そこだけが熱かった。
伝わってくるのは、激しいレースを終えてなお冷めやらない、剥き出しの熱量と、依存に近い信頼。
(……ああ、そうか)
移籍リストの備考欄には、『人懐っこく、従順なウマ娘』と書かれていた。
前のトレーナーは、それを単なる性格だと思ったんだろう。
けれど――いま俺の掌に額を預けて震えているのは、その「人懐っこさ」とは別の何かだ。
これは、SOSだ。
誰かに触れていないと、自分が消えてしまいそうな不安。
たぶん――これが、彼女の生き残り方なんだろう。
そう思った瞬間、背中が寒くなった。
俺がこの温もりに慣れたら、彼女はもっと壊れる。――そんな予感がした。
俺が手を離せば、また彼女は戻ってしまう。あの教室の冷えた闇に。
◆2月2週、京都・きさらぎ賞へ
俺は空になった椀を置き、静かに告げた。
「次は、京都だ」
俺の言葉に、彼女は顔を上げ、じっと俺を見つめた。
「遠征ってほどじゃない。知らない街で夜を越える必要もない。……今のこの『温度』を持ったまま、ちゃんと帰ってこれる距離だ」
不安の波を小さくするための、関西圏での戦い。
道中のアップダウンはあるが、最後の直線は平坦だ。
中山の急坂を耐え抜いたパワーがあれば、淀の直線なら――最後まで脚を使い切れるはずだ。
俺の「見る」ものと、彼女の「感じる」もの。その二つが噛み合えば、いまの俺たちには――まだ伸びしろがある。
「京都……淀。……私、今度は最後まで、トレーナーさんのこと待たせません」
彼女は俺の手をぎゅっと握りしめ、椀に残った汁を最後の一滴まで、大切そうに飲み干した。