9月1週、土曜日。
厳しい残暑が続く中、俺たちは再び東の地――中山レース場へと足を踏み入れていた。
今回の遠征メンバーは、キョウエイグリーンと、サマーマイルシリーズ逆転優勝をわずかな可能性に賭けるオペラローリン。
グリーンは明日の紫苑ステークスに出走予定で、今日は先輩の応援団長として帯同している。
レース前のコース開放。
俺たちは実際に芝コースの上に立ち、その感触を確かめていた。
「うっひょー! 下から見上げると、やっぱ中山の坂って壁だね~! これを駆け上がるのかぁ」
ゴール手前の急坂の真下で、グリーンが無邪気に、けれど少し顔を引きつらせて声を上げる。
その隣で、ローリンは静かに芝を何度も踏みしめていた。
中山は、去年の皐月賞で泥にまみれ、心が折れかけた因縁の地だ。だが、今の彼女の横顔に、かつての怯えはなかった。
「……怖くはありません。あの時とは、見えている景色が違いますから」
彼女は力強く、俺に向かって微笑んだ。その瞳には、夏の連戦で培った自信が宿っていた。
◆非常識な正攻法
控室での作戦会議。
今回の京成杯オータムハンデ、ローリンの枠順は8枠15番。大外だ。
トリッキーな中山マイルにおいて、スタート直後にカーブがあるため、外枠は致命的に不利とされる。
しかも、今回は「逃げ・先行」を主張したいウマ娘が多く、内側は激しいポジション争いで渋滞することが予想された。
「関屋記念の二の舞いは御免だ。……だからローリン、今回は外を回せ」
「外、ですか? かなりの距離ロスになりますが……」
「構わない。2200mの宝塚記念を走りきり、夏の猛暑を耐え抜いた今のお前のスタミナなら、マイルで多少外を回っても脚は残る」
俺はコース図の外側をペンで太くなぞった。
「中山マイルはコーナーが入り組んでいて、減速と再加速の回数が多い。ここで詰まって踏むブレーキの方が、距離ロスよりもよほど致命傷になる。……ここは脚よりリズムを奪われた方が終わるんだ。内で詰まるくらいなら、外で呼吸を守れ」
「呼吸を守る、ですか」
「ああ。お前の成長を信じた、横綱相撲だ」
俺の言葉に、彼女は真剣な眼差しで頷き、ふわりと微笑んだ。
「……ふふ。私の体力を信じてくださるんですね。分かりました。では――外から、私が優雅に抜けてきます」
◆京成杯オータムハンデキャップ(GⅢ・中山芝1600m)
本バ場入場。
前走の関屋記念は5着に敗れ、今回は不利な大外枠。それでもローリンは1番人気に推されていた。
不利を受けてなお掲示板を死守した前走の内容を、ファンは「負けて強し」と評価したのだ。
ゲートが開いた。
予想通り、内枠のウマ娘たちが一斉に前を主張し、1コーナーまでの短い直線で激しく体をぶつけ合う。
その喧騒を他所に、ローリンは大外枠から表情ひとつ変えずにスタート。無理に内へ切れ込むことはせず、バ群の外側を悠々と追走する。
(……ええ、お先にどうぞ。私はここで結構です)
コーナーを回るたびに、内側のウマ娘たちは減速と加速を繰り返し、スタミナを削られていく。
対してローリンは、外を回る距離ロスこそあるものの、一切のストレスなく自分のリズムでラップを刻んでいた。
第3コーナーから第4コーナー。
先行集団の足色が鈍り始める。
その時を待っていたかのように、ローリンがギアを上げた。
「――さあ、行きますよ」
彼女はバ群の大外を、まるで平地を走るような軽やかさで捲っていく。
障害物はなにもない。遠回りのはずの外が、いちばん真っ直ぐなビクトリーロードだった。
直線を向き、中山名物の急坂が立ちはだかる。
かつて彼女の心を折った壁。だが今の彼女にとって、それはただの通過点だった。
他のウマ娘たちが苦悶の表情で脚を止める中、ローリンの末脚は爆発した。
「……嘘、でしょ。あの坂を、平地みたいに――」
スタンドで見守るグリーンの表情から、笑みが消えていた。
翌日、自分が走る坂。それをいとも容易く踏破する先輩の姿に、戦慄すら覚えている。
ローリンは坂を駆け上がり、さらに加速する。
後ろから懸命に追う2番人気・ジョセツを突き放し、独走状態でゴール板を駆け抜けた。
結果は5バ身差の圧勝。
タイムは1分34秒4。
大外を回るロスがありながらこの時計。まともに内を突いていればレコードすら狙えたかもしれないパフォーマンスだった。
◆実りの秋へ
「……お疲れ様、ローリン。完璧なレースだった」
戻ってきた彼女を迎えると、彼女は少し息を弾ませながらも、誇らしげに胸を張った。
「はい。……外の風、とても気持ちよかったです。これなら、どんな相手が来ても怖くありません」
関屋記念の雪辱を果たし、サマーマイルシリーズでも堂々の総合2位に食い込んだ。
シリーズ優勝のタイトルこそ逃したが、この夏に得たものはポイントや称号以上に大きい。
苦手意識のあった中山で、不利な外枠を跳ね返し、GⅢでは格が違うことを証明したのだから。
オペラローリンは、もう戻っている。
その走りが、完全復活という言葉を不要にしていた。
目指すは本当の頂点。
秋の大一番、マイルチャンピオンシップへ向け、彼女はこれ以上ない形で夏を締めくくった。
「……すごいや、ローリン先輩」
その背中を見つめるキョウエイグリーンの瞳に、憧れと、そして武者震いのような熱い火が灯る。
「次は、アタシの番だね」
バトンは渡された。
先輩が壁ではなく通過点だと証明してくれたこの坂で。
明日の紫苑ステークス。新緑の閃光が、秋のGⅠ戦線へ向けて走り出す。