9月1週、日曜日。
昨日のローリンの快勝の余韻が残る中山レース場で、チーム・ルミナスは次なる戦いに挑もうとしていた。
秋華賞トライアル、紫苑ステークス。
パドックに現れたキョウエイグリーンは、いつも通り観客に手を振っていたが、その横顔には珍しく真剣な色が混じっていた。
今回のレースは、彼女にとって二つの意味を持つ。
一つは、秋華賞へ向けた、距離適性の最終テスト。
もう一つは――
「……居るね。オークスウマ娘」
グリーンの視線の先には、2番人気のタケフブキが静かに闘志を燃やしていた。
グリーンが距離不安で回避したオークスを制した、世代の頂点に立つ一人だ。
これは、春に「逃げた」と言われ続けたことへの、彼女なりの答え合わせでもある。
「2000メートル……正直、お前にとってはギリギリの距離だ。だからグリーン、約束してくれ」
俺は彼女の目を見て、静かに告げた。
「もしここで脚が止まるようなら、本番は無理に行かせない。お前を守るために、マイルへ戻す選択も用意している」
俺の言葉に、彼女は一瞬驚いた顔をし、それからニッと笑って俺の背中を叩いた。
「大丈夫だって! 2400のオークスから逃げたんだからさ、せめて2000くらいは走ってみせないと、『桜の女王』としてカッコつかないでしょ?」
「……そうだな。お前の意地、見せてもらうぞ」
「任せて! あのオークスウマ娘に、マイルの女王のスピードってやつを教えてあげる!」
◆紫苑ステークス(GⅡ・中山芝2000m)
ファンファーレが鳴り響き、一瞬の静寂の後ゲートが開いた。
宣言通り、好スタートを切ったグリーンが迷わず先頭へ飛び出す。
競りかけてくる相手はいない。単独の逃げ。
だが、それは自分の体内時計だけを頼りに、未知の距離を走り切らなければならない孤独な旅でもあった。
1000m通過、60秒フラット。
決して暴走ではない。これまでのマイル戦でも経験してきたペースだ。
だが、ゴールが遥か先にある2000メートル戦での“60秒”は、意味が違う。
あと1000メートル保たせるために、無意識にブレーキを踏み続けなければならない。
その我慢が、奔放なスピードスターである彼女の精神を、やすりのように削っていく。
第3コーナー、第4コーナー。
後続との差はまだある。セーフティリードに見えた。
――しかし。
最後の直線を向いた瞬間、グリーンの足色が鈍った。
中山名物の急坂。それが、限界を迎えた彼女の脚に鉛のように絡みつく。
見ていれば分かる。今の彼女にとって、この坂は壁だ。
昨日、ローリンは異常なほど軽くここを越えていったが、あれはあくまで例外だったのだ。
マイルまでなら弾むように回るグリーンの脚が、今は泥の中を走っているように重く見える。
あと200メートルが、彼女には永遠のように長く感じられているはずだ。
その隙を見逃すはずがない。
外から猛然と追い込んできたのは、タケフブキだ。
オークスを制した豊富なスタミナ。2400を走りきった脚が、最後の200メートルでまだ伸びる。
足音が、背中の真後ろまで来る。
3バ身、2バ身、1バ身――。
「グリーン! 踏ん張れぇぇぇッ!!」
俺の叫びが届いたのか、グリーンが最後の力を振り絞って顔を上げる。
負けない。逃げたなんて言わせない。
彼女は悲鳴を上げる体をねじ伏せ、ゴールラインへと飛び込んだ。
ゴール板。
先に切ったのは、新緑の髪の先端――その一瞬だけだった。
結果は1着。
2着のタケフブキにクビ差まで詰め寄られたが、なんとか逃げ切った。
ウイニングランを終えて戻ってきたグリーンは、フェンスに寄りかかり、肩で息をしていた。
いつもの余裕のピースサインはない。
「はぁ……はぁ……! な、なんとか勝ったよ、あすかさん……!」
滝のような汗。震える脚。
それが、この2000メートルという距離の過酷さを物語っていた。
「……やっぱ2000、キツい! 最後の坂、マジで死ぬかと思った……」
「ああ。……よく耐えたな。あのタケフブキを振り切るとは」
俺がタオルを渡すと、彼女はそれを頭から被り、その下から強気な瞳を覗かせた。
「でも、これで証明できたでしょ? ……アタシは、秋華賞でも戦えるって」
「……ああ。合格だ」
距離の壁にぶつかりながらも、才能と根性でねじ伏せた勝利。
だが、俺たちの目には焼き付いている。ゴール前、猛然と迫ってきたタケフブキの末脚を。
あと10メートル距離が長ければ、かわされていたかもしれない。
本番は、ここよりさらにタフな戦いになる。
それでも、俺は彼女に告げた。
「秋華賞への挑戦権、ここで掴んだな」
10月、京都レース場。
マイルの女王が、伝説をかけて最後のティアラに挑む。
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